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元マラソン選手の松野明美さん 熊本県議になった理由とは

10/1(月) 9:26配信

日刊ゲンダイDIGITAL

 東京五輪まであと1年10カ月。代表選手の選考もこれから本番を迎えるが、1992年開催のスペイン・バルセロナ五輪の際、女子マラソンの代表選考が紆余曲折し大きな話題となった。有森裕子選手と本日登場の松野明美さんだ。あれから26年、松野さんは……?

  ◇  ◇  ◇

「東京からですか? わざわざ遠くからありがとうございます」

 熊本県熊本市北区植木町。九州自動車道・植木ICからクルマで約10分、国道3号沿いの事務所へ行くと、松野さんは笑顔で迎えてくれた。名刺には「熊本県議会議員」。

「2010年4月に行われた熊本市議会の増員議員選挙で初当選し、翌年11月の同市議選挙でも当選。そして15年4月の県議選挙で県議にしていただきました」

 選挙区は熊本の中心部と北部エリアにまたがる熊本市第1区(定数12)。松野さんは1万8784票を獲得し、トップ当選を果たした。

「市議が約5年でしたから、『まだ早い!』とのお声もありました。でも一貫した公約の『障がい者の雇用問題』『障がい児童の特別支援教育』を全県レベルで解決するには、県議になるのが手っ取り早いと思い、決断したんです」

 強いこだわりは、政治家を志した原点だからだ。

「03年12月に生まれた次男の健太郎はダウン症で、さらに生まれながら心内膜床欠損症とファロー四徴症という重度の心臓病を抱えていまして、私たち夫婦にとっては育児イコール障がい児の育児。欧米に比べ、はるかに遅れている障がい者・児童をめぐる生活・教育環境の向上を求め、数え切れないほど行政の方々に相談し、時にはぶつかったこともありました。でも壁は大きく、なかなか打ち破れない。『じゃあ、私が改善しよう!』って」

 選挙では認知度の高さも有利に働いた?

「ないとは言いませんが、無所属での挑戦でしたし、とにかく必死。選挙カーから降りて走り、畑の中に人がいれば駆け寄って握手……。“ドブ板”に徹したのが功を奏したんだと思います」

 県議会は定数48で無所属は松野さんだけ。

「公約実現には会派所属が有利ですが、そうすると党派や先輩後輩のしがらみが生じ、言いたいことを言えなくなってしまいがち。それを避けるため、あえて無所属を選びました。この性格はバルセロナ五輪問題以前から、ずっと変わりませんね。アハハハ」

■有森裕子さんを恨んだことも……

 さて、植木町(現・熊本市北区)の兼業農家に生まれた松野さんは、小5の時に出場した市内のマラソン大会で優勝したことをきっかけに長距離走に目覚めた。

 全国的に注目を浴びたのは、高校卒業後に入社した地元スーパー・ニコニコドーの女子陸上部に所属して出場した1987年の全日本実業団対抗女子駅伝。第4区に出走するや、当時の第一人者・増田明美を含む12人をゴボウ抜き。「新星現る!」とマスコミにもてはやされた。

 その後、マラソンに転向。92年1月、バルセロナ五輪代表選考レースを兼ねた大阪国際女子マラソンで2時間27分02秒の好記録で2位に。内定していた小鴨由水と山下佐知子に続く、最後の代表選手枠を有森裕子と争うことになった。

 当時を知るスポーツライターはこう言う。

「有森は、国内選考レースに一度も出場していなかった。対する松野は実績を残している。ところが『有森の方がバルセロナ特有の暑さに強い』との異論が日本陸連内から出て、結局、選ばれたのは有森。選考過程が不明瞭で、判官びいきになりがちなマスコミの論調もあり、松野の落胆がクローズアップされました」

 有森は銀メダルを獲得し日本陸連は面目を保ったが、松野さんが受けたダメージは心身ともに大きく、失意の中、95年12月、27歳で引退……。

「一時、有森さんを恨んだこともありました。でも7年前に放送されたTBSのドキュメンタリー番組の収録で約18年ぶりにお会いして、有森さんもつらかったことを知り、わだかまりはなくなりました」

 北区内に、ご主人、高1の長男、中3の次男と住む。
(取材・文 高鍬真之)