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<安全保障>「真実のゴジラ」が問う憲法改正

10/8(月) 10:00配信

毎日新聞

 2016年に大ヒットした映画「シン・ゴジラ」。防衛大卒で、自衛隊を巡る「リアルな議論」を求める滝野隆浩・毎日新聞社会部編集委員が、この作品を通して考えたことは--。※映画の結末に言及しています。

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 東大法科大学院に映画研究会(映研)という学生の集まりがあって、毎年1回、9月に一般公開で映画を見た後にトークセッションをする「本郷映画祭」が開かれている。第4回の今年、そこに登壇してほしいという依頼が主催者の学生からあった。見る映画が「シン・ゴジラ」だという。私が防衛大卒の記者だからなのだろう。それでなんとなく引き受けてみたのだが、9月22日に東大の正門を入ったすぐのガラス棟の教室で開催された「第4回本郷映画祭 シン・ゴジラと安全保障」は、なかなか中身の濃いイベントだった。

 法哲学者の井上達夫・東大大学院教授が映研の顧問をしていた。このところ憲法9条問題について発言してきた井上先生とは、毎日新聞労組が2016年1月に主催したシンポジウム「自衛隊って『戦場』に行くの? 問われる国民合意と報道」でご一緒した関係である。井上先生と世界の紛争地の武装解除を数多く経験した東京外国語大大学院教授の伊勢崎賢治先生、さらに陸・海の自衛隊将官OBも登壇して議論する、リベラルな毎日労組としてはかなり踏み込んだシンポジウムだった。私は「司会」をしていたが、それぞれの本音が次々と出てきて、議論がどういう方向に行くのかハラハラした記憶がある。

 実は、今回、「私ではなくて、軍事のプロである防衛大同期の将官を紹介しますよ」と提案してみたのだが、主催者の意向としては「安全保障の専門家ではないものの、自衛隊の内情を少しは知っている記者に」ということだったらしい。井上先生と映研の学生、部外からは私と、吉澤裕さん、その4人のトークセッションになった。吉澤さんは外務官僚OBで、南アフリカ大使も務めたというので興味深かった。いま、東大法科大学院に通って弁護士を目指していると聞いた。

 いまさらではあるが、「シン・ゴジラ」という映画は16年夏に公開され大変な話題を呼んだ庵野秀明監督の作品だ。「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」がキャッチコピーで、東京湾に突如現れた巨大生物(ゴジラ)を、日本政府が右往左往しながら「駆除」するストーリー。自衛隊の装備は総動員されるものの、日本型の意思決定機構は機能せずゴジラを止めることができなかったために、米国をはじめ国際社会が熱核兵器を東京のど真ん中で使用することを決定。その一歩手前まで行くという展開に。最後は、「次世代の政治家」的な主人公(官房副長官)がリーダーシップをとってゴジラの「凍結」に成功するという物語である。

 与えられた時間は15分だったので、あまり多く話すことはできなかったが、「シン・ゴジラ」を見直して私の頭にまず浮かんだのは、映画における「自衛隊の描かれ方」の変化である。昭和期の自衛隊は、ゴジラ・シリーズでも、ガメラ・シリーズでも、その他の特撮怪獣シリーズでも、「前座」の役割に過ぎなかった。怪獣が出てきて暴れまわり、「とりあえず」みたいに出てきては、すぐに粉々に撃破される役回り。そのあと正義の味方が悪戦苦闘しながら最後は敵をやっつける、と。いつも前座だった。それから、ギャグ的な扱い。世の中とは別世界の、「上意絶対」の兵隊さんたちが出てきて、旧軍よろしく「~であります」などと言いながら隊員たちはイジメに耐え、上官の無理強いに従っていく姿勢が、ギャグとして成立していた。あとは、映画「皇帝のいない八月」的な、何をやるかわからないおどろおどろしい存在としての描かれ方。ほっとけばあいつらクーデターやらかすぞ、コワいぞ、のような。本物の隊員たちにしてみれば、あんなのはうそっぱち、実像とは大違い、となるのだろうが、その時代がかもす雰囲気から、世の中は自衛隊を「前座」の弱い組織とし、「ギャグ」として笑い飛ばし、それでも「不気味」な存在と感じていたのだろう。

 まさに現代を描く「シン・ゴジラ」では、装備も指揮系統もそれ相応に描かれていて、自衛隊員は留飲を下げたに違いない。やっと正当に評価された、と。ただ私は、少々カッコ良すぎないか、という印象を持った。作品の最後のほう、官房副長官から作戦がよく練られていると褒められたときに、自衛隊トップである統幕長が「礼は要りません。仕事ですから」とさらりと言う。そんな言い方するのかと、つっこみたくなった。いずれにしても、時代とともに、自衛隊の描かれ方は変わっていく。いまの時代は、危機対応組織として、世の中、国民はそれなりの信頼を置いているということだろう。自衛隊単独では限界はあっても、官と民、多職種連携、もっといえば国際社会が力を合わせてコトに当たるというスタイルも、いまの時代の雰囲気を取り込んでいると、私は思った。

 蛇足ながら、オペレーションに「名前」をつけたがるのも、制作者側がよく組織文化を取材しているなあと感じた。作中、「タバ作戦」がまず失敗し、最後は「ヤシオリ作戦」に入っていくのだが、「ヤシオリ」とはヤマタノオロチの故事に由来するらしい。自衛隊の実オペレーションでも作戦名を故事から取ることはよくあることで、私が忘れられないのは、東日本大震災の福島原発事故に対処するオペレーション。原子炉上空からの放水作戦には、別の「ホウ酸散布作戦」計画がひそかに練られていて、部下たちは、決死のこの作戦を当時の陸幕長の出身地に近い、大分県にある神社の名前から「鶴市作戦」と呼んでいた。水害を止めようと人柱になった母子、お鶴と市太郎さんの物語……。自衛隊、特に陸上自衛隊はそういう文化を持っているのだ。

 そういう「自衛隊トリビア」の話も楽しいのだろうが、持ち時間は15分しかないので、私は、自著で常々書いてきた話をした。1990年代以降に海外派遣が始まり、自衛隊の任務が広範囲に、そして過酷になっていった話がひとつ。もうひとつは、憲法9条のくびきから組織が背負ってきた「愛されたい」というDNAと「殺し/殺される」という軍事組織が本来的に持つ本質、この二つの潮流がいま自衛隊の中でぶつかり合っているという話だった。「シン・ゴシラ」には直接関係はないけれど、自衛隊を扱った映画を理解するうえで、知ってほしい背景だった。

 もう一人の外部の登壇者である吉澤さんが話したことは、自分の外務官僚としての体験から導き出される危機管理に関する教訓についてである。興味を引いたのは92年のカンボジアの国連平和維持活動(PKO)に自衛隊部隊を送るための国際平和協力法の法案づくりに少なからずかかわってきたという話。国連が求めるものと憲法9条の制約の間で、かなり苦労したらしい。セッションの最後に質疑の時間があって、吉澤さんに対して質問が出た。「カンボジア派遣の法案をつくり、その後も南スーダンなどへと部隊は派遣されたけれど、個人的にはどんな思いを持っているのか」と。質問した若い男性、彼はその丁寧な口ぶりから、自衛官なのだろうと想像する。たぶん幹部でない一般隊員。はからずも「第一線に派遣される者」と「派遣法案の作成者」との対話となったが、吉澤さんは誠実に、「(法案では)自衛隊の活動について、必要以上に限定してしまった」「今後、何が起きるかわからないので(PKO派遣5原則のもととなる)憲法は直したほうがいいが、個人的な印象として、直すときに戦前の軍隊のように自衛隊を位置づけるのはよくない」などと答えていた。

 このあとは、同映研顧問、井上先生の「憲法9条講義」の時間となる。「改憲派も護憲派も、両方とも欺まん。とくに護憲派は始末に負えない」とする先生の論旨は明快だった。さらに安倍首相の「戦力不保持と交戦権否認をうたう9条2項を残したまま自衛隊を書きこむ」改憲案の矛盾について、論理的に、苛烈に糾弾していった。その詳細はここでは書かないが、私が受け取ったメッセージは、本当にいまの国際情勢に合わせてこの国を守り、憲法を大切に思うのなら、憲法改正をまじめに考えなくてはならないということだ。矛盾にフタをした安倍首相の改憲案でも、ただ護憲と唱え続けることでもない。井上先生が強調していたのは、こういうことだ。

 「安倍改憲案を支持する改憲派も、反対する護憲派も、日本の安全保障をまじめに考えていないということがある。大丈夫、いつかはアメリカが助けてくれる、と。その根底にあるのは『起こってほしくないことは起こらないから考えない』という日本人の子供っぽい考え方だ。まさに能天気。シン・ゴジラは『真実のゴジラ』、いままで隠蔽(いんぺい)してきた真相のこと。それでいいのかと、バシッと言っているのが、この『シン・ゴジラ』という映画なんですよ」

 私も憲法問題を考えるときはいつも、日本社会の子供っぽさについて考えてきた。また「シン・ゴジラ」を見終わってまず頭に思い浮かんだのは、作中のゴジラというのは「起きてほしくないこと」の象徴なのだろうな、ということだった。井上先生はそのことを「真実のゴジラ」と言い当てた。だとしたら、この映画のキャッチフレーズ「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」は、ひとたび危機が起きたら、皮肉にも反転する。ゴジラが本当に出現したとたんに、現実の日本社会の虚構性が白日の下にさらされることになる。いや、それどころか、それはもうギャグになってしまうかもしれない。笑ってはいられないけど。

最終更新:10/8(月) 10:00
毎日新聞