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輪島さん死去 波瀾万丈の70年、最期はひっそり

10/10(水) 9:06配信

日刊スポーツ

「黄金の左」と呼ばれた型破りな元横綱が逝った。第54代横綱でプロレスラーにもなった輪島大士さん(本名輪島博)が8日午後8時、東京・世田谷区の自宅で亡くなった。70歳。死因は下咽頭がんと肺がんの影響による衰弱だった。日大からプロ入りして学生出身では初の横綱に昇進し、左下手投げを得意に歴代7位の14度優勝。年寄名跡を借金の担保にして廃業後、全日本のプロレスラーでも活躍した。土俵の内外で自由奔放な個性的な横綱だった。葬儀・告別式は未定で、喪主は妻の留美(るみ)さんが務める。

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輪島さんは4年前に引っ越した世田谷区の自宅で亡くなった。近所の住民によると、前日深夜に自宅へ救急車、パトカー、消防車が相次いで到着したという。以前は1人でよく散歩し、顔を合わすとしゃべる代わりに肩をたたいたり、手をたたいて、気さくにあいさつされたそうだ。1年前から散歩に出なくなったが、3日前にはつえをついてデイサービスの車に乗る姿を見たという。

13年に咽頭がんの手術を受けた後は声が出ないこともあり、公の場に出ることは減った。遠縁の輝が所属する高田川部屋の稽古を定期的に訪れていたが、今年はなし。そのほかは、日大の後輩である境川親方(元小結両国)の弟子の挙式に出席する程度。角界だけでなくプロレス、日大などの関係者とも疎遠となり、一時代を築いた横綱はひっそりとこの世を去った。

幕下での初土俵には日大応援団まで駆けつけた。「蔵前の星」と期待されるも、たたき上げから「学生さん」と見下された。大成しないと言われた学生相撲から、初めてで唯一の横綱昇進でジンクスを打破した。

得意は左四つからの下手投げ。右の絞りが強かった。これも大成しないと言われたが、角界では異端のランニングも重視し、安定した下半身を作った。大型化が始まった時代で昇進時は120キロ。下半身の瞬発力に天性のタイミングで、このジンクスも打破した。

北の湖とは44度対戦した。74年名古屋場所で逆転優勝したが、北の湖も横綱に昇進した。ここから「輪湖時代」と呼ばれて毎場所賜杯を争った。75年に腰痛などで3場所連続休場し、気分一新に締め込みを金色に替えた。カラー化時代の先駆けで「黄金の左」が代名詞に。レスラー時代も同系色の黄色いパンツがトレードマークだった。

81年春場所で連敗すると現役を引退した。花籠部屋を継いだが、年寄名跡を借金の担保にしていたことで大騒動に発展。親方は4年半で廃業し、86年にはプロレスラーに転身した。馬場社長にかわいがられたが、約3年で2度目の引退となった。

日大相撲部で1学年上に頭の上がらない現日大田中理事長がいた。大学3年時に決勝で破って学生横綱になると、当時の理事長にプロを勧められた。日大からは66人が入門して51人が関取に。その道筋をつけ、燦然(さんぜん)と輝く第1号。型破りで奔放な性格と言動で一世を風靡(ふうび)した昭和の横綱は、波瀾(はらん)万丈の人生を送った。今年は騒動続きの日大にあって大スターだった横綱が旅立った。

◆輪島大士(わじま・ひろし)本名輪島博。1948年(昭23)1月11日、石川県七尾市生まれ。金沢高で相撲を始め、日大で2年連続学生横綱など14タイトル。花籠部屋に入門し70年初場所幕下尻付け出し初土俵。連続全勝優勝で夏場所新十両、71年初場所に新入幕。72年初優勝、秋場所後に大関昇進。73年夏場所後に54代横綱昇進。優勝14回、三賞5回。現役時185センチ、125キロで、得意は左四つ、下手投げ、寄り。81年春に引退して花籠部屋継承も85年に年寄名跡担保問題で退職。86年プロレスラー転向し、88年引退後アメリカンフットボールの学生援護会総監督やタレント活動も、13年に咽頭がん手術を受けた。

最終更新:10/10(水) 9:11
日刊スポーツ

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