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金閣寺に足利義満が造成した幻の池 発掘調査で

10/11(木) 21:43配信

京都新聞

 京都市北区の金閣寺(鹿苑寺)の発掘調査で、同寺や市埋蔵文化財研究所は11日、金閣に面した鏡湖池南側にあったとされる「南池跡」について、創建した足利義満が造成し、未完に終わった池だったことが分かり、同時期の礎石建物も近くで新たに見つかったと発表した。義満が晩年を過ごした「北山殿」では金閣のほか、国内最大級の北山大塔が存在したことがすでに明らかになっている。幻とされた南池跡の出土は、北山殿が現在の建物規模より大規模に造成されたことを裏付け、室町幕府最盛期を築いた権力者・義満の権勢を示すものという。
 金閣寺の境内整備に伴い、市埋文研が2018年8月までの約2年間、約840平方メートルを調査していた。
 南池跡では、池を囲うように東、西、南側に盛り土し、堤(高さ0・6~1メートル、幅2~5メートル、総延長170メートル)を築いているのを確認した。池内部や堤沿いに、直径6~20メートルの島状の高まりが3カ所あった。遺物の出土状況から、北山殿が築かれた14世紀末ごろに造成されたとみられる。
 ただ、造成土からは防水のために施す粘土層が見つからず、周縁部に護岸石もなかったため、未完だったとみている。
 堤は15世紀後半ごろにかさ上げされ、高さ約2メートルの土塁のようになっていた。応仁・文明の乱(1467~77年)で西軍の陣地になった際、防御用に造り替えられたのではないかとする。
 一方、南池跡の北東辺では、東西5・4メートル、南北6メートルの小型建物跡が出てきた。礎石13個が並び、正面方向で人目に付く東側柱や縁側には、30センチ四方に加工した白い花崗岩(かこうがん)を用いていた。土を固めて整えた舞台のような「三和土(たたき)」(東西10メートル、南北7メートル)が東南方向に広がっており、私的な空間として儀式などを行っていた可能性があるという。
 北山殿は、義満が死去する1408年まで約10年間を過ごし、政務を行う会所や御所もあり、近くに武家や公家、門跡寺院住職らも集住したと、貴族や僧侶の日記から推定されている。近年の発掘調査では100メートル級の高さとされる北山大塔の頂部分を飾った相輪が見つかっている。
 京都市埋文研は「今回見つかった大規模な造成跡や精密に加工された礎石から、義満の北山殿が想像以上に大規模な構造だったことが分かる。ただ、建物の配置や使い方に不明点が多く、文献に基づく検証を進めたい」としている。
 □京都産業大の鈴木久男教授(考古学)の話 南池は、北山殿をさらに拡張してゆく手始めとして造営したのではないか。金閣をよく眺められ、一番目立つ場所から着手したとみられ、義満が存命であれば水を張った池が完成していただろう。強大な権力を握った義満が築いた北山殿だが、今回見つかった礎石建物を含めて不明な点が多い。北山殿の全容を復元する上で、貴重な基礎的な資料が得られた。

 ◇足利義満と金閣寺 室町幕府3代将軍・義満は将軍職を息子・義持に譲ると、1397年に隠居所として「北山殿」の造営を始め、移住。武家に加え、公家や寺社勢力も従える強大な権力を握り続け、ここに海外貿易のために中国・明の使者を迎え、国内最大級とされる北山大塔の建築に着手した。1408年、後小松天皇の行幸後、突然死去して遺言により鹿苑寺になったが、金閣以外の多くは移築、焼失した。

最終更新:10/11(木) 23:22
京都新聞

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