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使命感と向学心に燃えた「台湾少年工」 戦闘機製造に従事 20日に記念式典

10/12(金) 10:16配信

産経新聞

 「いまも懐かしさでいっぱいだ。10代に同じ釜のメシを食べた仲間との心のつながり、喜怒哀楽は何年たとうとも忘れられない」

 第二次世界大戦期の昭和18(1943)年、日本統治下にあった台湾から選抜された10代の少年が神奈川県に位置した「高座海軍工廠(こうしょう)」に集められ、今年で75年。終戦までの2年間で8400人以上の「台湾少年工」が戦闘機の製造に携わった。

 台北で生まれ、18歳で少年工になり、現在は元少年工の同窓組織「台湾高座会(こうざかい)」の総会長を務める92歳の李雪峰氏は日本語でこう話した。

 元少年工やその家族らと日台の交流を長年続けてきた神奈川県の地元関係者らが10月20日、座間市や大和市などで記念式典を開くことになった。80代、90代になった元少年工20人に加えて、家族や対日交流に関心の深い台湾の若者、約70人も海を渡って出席する。李氏はそのリーダーとして再び思い出の地を訪れる。

 記念式典は「台湾高座会留日75周年歓迎大会」。甘利明・元経済再生担当相が大会会長として歓迎のあいさつをする。式典に先立ち同日午前、座間市の芹沢公園に建立された「台湾少年工(海軍軍属)顕彰碑」の除幕式も行われる。戦時中に父親が少年工の寄宿舎で舎監を務め、自身も少年工らと寝起きをともにしていた「高座日台交流の会」の石川公弘会長が、大会実行委員長の重責を果たす。

 子供のころ、台湾からの少年工たちを“兄貴分”と慕っていた石川氏は、「台湾少年工の戦時下における労苦と、戦後の台湾における知日団体としての働きに感謝する大会にしたい」という。ただ、「元気な方々も90歳前後になった。“第二の故郷”である『高座の地』で開催する大規模な歓迎大会としては、おそらく今回が最後になると思われる」と寂しげに話した。

 李雪峰氏が台北市内で少年工の仲間や友人たちと好んで集い、日本などからの来客と会うカフェが、松江路の「ゴールデンチャイナホテル(康華大飯店)」1階にある。李氏は目を輝かせて「台湾では当時、何万人もの10代の少年が向学心に燃えて少年工に応募したんだ」と流暢(りゅうちょう)な日本語で話した。

 戦前の皇民化教育の影響もあっただろう。だが、李氏によれば、「勉強しながら働く『半読半工』で、給料や退職金に加え、上級学校の卒業資格が与えられる好条件にひかれた」。学校の推薦や保護者の承諾に加え、日本語や礼儀作法、体格など厳しいテストで高倍率を勝ち抜いた。小学校を出たばかりの、あどけない少年も少なくなかった。

 李氏は、「台湾では(日本の内地から来た)教師や警官の息子が生意気で、よくケンカした」と話す。

 当時は日本の版図に含まれ、日本の領土の一部であったはずの台湾。だが、台湾人は日本人の支配下にある、と勘違いした一部の人々による、差別的で心ない言動も少なくなかった。

 李氏らはそうした中でも少年工になって社会に認められ、生意気な連中に“一矢報いたい”とする思いもよぎったのではないか。

 一方で李氏は「神戸から汽車で名古屋、到着した神奈川などで日本人の本当の優しさを知ったんだ」と懐かしそうに打ち明けた。

 「おばさんたちが振る舞ってくれたおむすびや、お茶の味はいまでも忘れられないな。焼き芋をもらったり服のつぎはぎもしてくれたりした。休日には仲間と横浜の南京街に行って肉まんを買ったな」と李氏は少年の目をして話し続けた。

 とはいえ、戦時中のことだ。物資や食料が不足する中で、台湾という南国で育った身には神奈川の秋から冬にかけての寒さが身にしみる。戦闘機「雷電」を製造するため鉄板をハンマーで成型するなど、少年には辛い労働も待っていた。

 しかも、李氏は年長者で少年工のリーダー格だった。古参の工員らから執拗(しつよう)ないじめにあったことは、悔しい思い出だ。「米機の空襲で60人もの少年工が亡くなった」という。少年工たちも戦中の最前線にあって生命の危機に直面していた。

 それでも、台湾で選び抜かれて内地で任務についたという自負と、「1機でも多くの戦闘機を戦地に送り出さねばならない」と考える使命感が、少年工を突き動かしていたのだろう。

 昭和20年8月15日。台湾少年工も勝利を信じていた戦争は敗北。「半読半工」でめざした台湾少年工の向学心は夢と消えた。ただ、李氏はこのとき、敗戦のショック以上に「多数の少年工たちをどうやって台湾に安全に連れて帰るかが、まず頭にあった。とにかく冷静だった」と振り返った。

 台湾の出身地区ごとに組織を構築し、秩序を保って故郷をめざしたという。

 無事に台湾に戻った少年工たちも戦後、中国国民党政権の強権支配下で、日本軍に協力したなどと弾圧され、苦難が続いた。1987年まで38年間の戒厳令期に、正当な理由もなく投獄されたり銃殺されたりする元少年工がいた。「それでも厳しい時代を生き延びて、医師や企業家などとして成功するなど(元少年工から)人材が輩出した」と話す。

 李氏らは87年7月に戒厳令が解除されてすぐ、88年に元少年工の同窓組織、台湾高座会を立ち上げた。

 李氏らが「10代に同じ釜のメシを食べた仲間との心のつながり、喜怒哀楽」を戦後もずっと忘れられなかったことの証左だ。李氏はいわば台湾高座会を代表する形で2013年春の叙勲で、日本政府から旭日小綬章を受章した。伝達式で李氏は、「日本は私たちを忘れなかった」と述べた。

 75周年を祈念する10月20日の歓迎大会も、もちろん日本が台湾少年工、その家族や友人たちを決して忘れていないことの証左だ。(台北 河崎真澄)

最終更新:10/12(金) 23:37
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