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”もう一人の杉原千畝” ユダヤ難民救う 樋口季一郎とは(上)

10/20(土) 10:30配信

丹波新聞

 第2次世界大戦中の1940年(昭和15)、多くのユダヤ人難民を救う「命のビザ」を発行した杉原千畝。「東洋のシンドラー」とも呼ばれた杉原の行動からさかのぼること2年前の1938年(昭和13)以降、旧満州国ハルビン市で、数千人以上のユダヤ人難民の命を救った日本の軍人がいた。兵庫県の淡路島出身で、私立尋常中学鳳鳴義塾(現・同県立篠山鳳鳴高校)から軍門へと進んだ陸軍中将・樋口季一郎だ。日本ではあまり知られていないが、ユダヤ人国家のイスラエルでは今も恩人として感謝されている。そんな「もう一人の杉原千畝」というべき存在であり、後に「玉砕」という悲劇に向き合った軍人の生涯を追った。

東条英機に「弱い者いじめ正しいか」

 ナチス・ドイツの弾圧を逃れてドイツを脱出したユダヤ人難民が、シベリア鉄道で満州国との国境に近いソ連領オトポール駅に着いたのは、1938年3月8日のことだった。

 当時、日本はドイツと防共協定を結んでおり、日本の傀儡(かいらい)政権であった満州国は、日本の目を気にして入国を拒否。氷点下20度を下回る気候で凍死者も出始めるなか、関東軍司令部付・ハルビン特務機関長であった樋口は、独自の判断で難民救済に動く。

 満州国外交部に働きかけて特別ビザの発行にこぎつけ、南満州鉄道(満鉄)総裁に訴えてハルビンまでの救援列車を手配した。ハルビンでは地元のユダヤ人有力者らと協力して食事や衣服も用意。また東亜旅行社(現・JTB)に委託し、出国のあっせんや、満州国内への入植、上海などへの移動にも力を貸したという。

 この一件で後日、ドイツから日本へ抗議書が届き、軍司令部に呼ばれて出頭した樋口は、参謀長だった東条英機に、「ヒットラーのお先棒を担いで弱いものいじめすることを正しいと思われますか」と言ったというエピソードが残る。結局、樋口の行為は不問に付されたが、救出劇が歴史の表に出る事もなかった。

 樋口が開いたオトポールからのルートは、「ヒグチ・ルート」とも呼ばれ、満州国境を通過した難民の数は、数千人から2万人にのぼるという。JNF(ユダヤ国民基金)のホームページには「2万人」とあり、1つの定説になっているようだ。

 JNFがイスラエルに所有する寄付者名簿「ゴールデンブック」には、当時の極東ユダヤ人協会長で、樋口に難民救済を求めた医師のアブラハム・カウフマン、現場で実務に奔走した大連特務機関長の安江仙弘、そして樋口季一郎の3人の名前が特別に記載されている。

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最終更新:10/20(土) 11:55
丹波新聞

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