ここから本文です

<作家>「僕は実は大学に…」村上春樹さん冒頭あいさつ

11/4(日) 18:40配信

毎日新聞

 4日、母校の早稲田大に蔵書やレコードなどの資料の寄贈を決めた作家、村上春樹さんの記者会見冒頭のあいさつは以下の通り。





 こんにちは。最初はなんか、村上春樹記念館にしようという案もあったんですが、まだ死んでないので(笑)、まだちゃんとした名称は決められないんですけど、そういう施設を早稲田(大学)に立ち上げようとなりました。

 僕は実はあんまり大学に出ていた記憶ってないんですよね。当時はストライキとか、ごたごたがずっと続いてて、授業があんまなくって、出席日数が足んなくてもリポート出すと単位くれた時代だったんです。

 しかも僕は学生結婚しちゃって、途中から仕事を始めちゃったんで、授業に出られるような余裕は実際なかったんです。でも一応、7年かけて卒業させてくれたんで、やっぱり寛容な学校だったんだなと思います。

 ちょっと当時の早稲田の話をしますけど、安堂信也さんという有名な先生がいまして、僕は(17世紀フランスの劇作家の)ラシーヌの講義を取っていたんです。でも、僕はもう忙しかったんでほとんど授業に出なくって、その単位がもらえないと卒業できなかったんですよね。

 こうこうこういう理由でもう結婚してて、店もやってて、「とても授業に出られないです」とお願いしたら、先生は「一度きみの店に行ってみようか」と言って、実際に国分寺までわざわざ店に来てくださったんですよ。で、見て、「きみも大変だなあ」と言って単位もらいました。

 でも、今だから正直言いますけど、ラシーヌなんて一度も読んだこと無かったんです(笑)。テストも全然準備などせずにいって、答案用紙裏表にびっしり自分の書きたいことを書いていた。書いたら、面白いって言って、けっこう点くれましたから。

 卒論も1週間で原稿100枚書いたんです。適当なことをでっちあげで書いたんです。で、出したら担当教授が映画の先生で、Aプラスくれたんですよね。「きみは物を書く道に進んだほうがいい」とアドバイスしてくれて、「またこの先生ぼけたこと言ってんなあ」と思ってたんだけど。でも、当たってたみたいで、今となっては感謝しています。

 それから、当時の早稲田大学って、今のことよく知らないんですけど、そういうちゃらんぽらんというか、割に自由な気風があって、そういうのが僕の性格にあってたかなあと思います。

 僕はもうかれこれ40年近く小説家として物を書いてきてるんですけど、生原稿とか資料とか書簡とか関連記事とか、そういうものがいっぱいたまってまして、うちにも事務所にも置ききれないくらいあるんです。

 で、僕は子供がありませんので、僕がいなくなった後、そういうものが、ばらばらになってしまったり、散逸したら困るなあと思ってたんですけど、今回、母校である早稲田大学がこういう場所を作ってアーカイブの管理をしていただけるということで、僕にとってありがたいことだと思ってます。

 そういう施設が日本人でも外国人でも、僕の作品を研究したいと思う人の役にたつとすれば、それにまさる喜びはありません。それから僕の作品に限らず、お互いの国の文化交流の一つのきっかけになる場所になればなあと思っています。

 僕の本は50カ国語以上に翻訳されていますし、また僕自身も熱心に翻訳の仕事を続けてまいりました。

 で、僕自身は自分は翻訳によって言語の交流とか交換によって育てられてきたという意識は強くあります。日本文学の中にとどまっていたら、窒息状態になっていたかもしれません。そういう意味合いで、この場所が文学や文化の風通しのよい国際交流の交換の場になってくれればいいなと願っています。

 そして、センターという場所の中に、交流を目的としたセミナーみたいなものを開ける広い部屋をぜひ作りたい。またゆくゆくは、スカラシップみたいなものを立ち上げることができたら、それは言うことないと思うんです。

 欲を言えば、僕の集めたレコードとか書籍なんかをストックした書斎みたいな機能を持つスペースを設けることができたらいいなと思います。そこでレコードコンサートでも開ければいいなと思います。僕もそういうことには積極的に関わっていきたいと思っています。

最終更新:11/5(月) 0:46
毎日新聞

あなたにおすすめの記事