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<水上特攻隊員阪口善次郎の証言>(2) 特攻から生還し原爆投下翌日の広島へ

11/7(水) 11:20配信

アジアプレス・ネットワーク

戦艦大和の最後となった「天一号作戦」から奇跡的に生還した坂口善次郎さん(96)=大阪府吹田市=は、4カ月後の45年8月6日、米軍上陸に備える陸戦隊員として、広島県呉市の海軍基地にいた。(矢野宏/新聞うずみ火)

◆ 投下翌日の広島の惨状を前に

その日の朝、空襲警報が出たため朝礼が中止となり、坂口さんはたまたまテントの中にいた。

「通信機を手入れしようと外箱をはずしたときでした。黄色い光と、猛烈な温かい風に襲われたのです。外に出て西の空を見ると、異様な雲がわき立つのが見えました」

翌7日、広島駅の復旧作業に向かうことになった。呉駅から海田駅まで列車で移動し、そこから歩いて広島に向かった。

「街は焼け野原になっていました。建物の残骸が散乱する道なき道を進むと、道路には子どもの黒こげになった死体が転がり、焼けただれた手を空中に浮かせて『水をくれ』と叫んでいた。駅前には電車かバスの車体が真っ黒に焼け焦げ、くすぶっている塊が横たわっていた。北側の練兵場にもたくさんの死体が横たわり、焼けただれ苦しんでいる人が転がっていました。生き地獄さながらの壮絶な光景に目を背けながら作業現場まで歩いたのを覚えています」

救助部隊は駅近くの線路の片付け作業に取り掛かった。下士官となっていた阪口さんは部下の仕事ぶりを監視する役目だったという。

「レンガや木材をひっくり返すと、男か女か、大人か子どもか見分けのつかない黒こげの死体が出てくる。その死体を引き出し、担架に乗せて駅前の防空壕へ運んでは、ガソリンをかけて焼いていきました」

汽車が通れるまでに片づけたとき、すでに日が暮れていた。その夜、阪口さんは寝付けなかったと振り返る。

防ぐ術もない1発の爆弾で一つの都市が壊滅し、多くの市民が殺された。生き地獄のような惨状をもたらす特殊爆弾が次々と投下されたら、日本はたちどころに無尽に帰してしまう――。阪口さんはつぶやいた。「戦争は絶対にやめなあかん」。

9日に長崎へ原爆が投下され、15日には玉音放送を聞き、日本の敗戦を知る。

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