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『オーヴァードーズ』は小西康陽が野宮真貴の魅力を最大限に引き出したピチカート・ファイヴの傑作!

11/7(水) 18:12配信

OKMusic

10月31日、2014年の『野宮真貴、渋谷系を歌う。~Miss Maki Nomiya Sings Shibuya-kei Standards~』から、2017年の『野宮真貴、ホリデイ渋谷系を歌う。』まで、シリーズ全5作のアルバムから“渋谷系”の代表曲をコンパイルした野宮真貴のベスト盤『野宮真貴 渋谷系ソングブック』がリリースされた。「東京は夜の七時」はリリース25周年を記念して、2001年のピチカート・ファイヴ解散後初の小西康陽編曲・プロデュースによる新録されており、ファン垂涎の音源として話題となっているが、本コラムも便乗して今週はピチカート・ファイヴでいこうと思う。もちろん、「東京は夜の七時」が収録されたオリジナルアルバムの紹介だ。

“渋谷系”を体現したアーティスト、小西康陽

ピチカート・ファイヴを語ろうとする時、避けて通れない“渋谷系”なるカテゴリー。四半世紀も前の言葉ゆえに、下手をすると今や“新新御三家”や“竹の子族”くらいの年代ものになっているのかもしれないが、まずはこの“渋谷系”とは何なのかを見てみよう。Wikipediaでは以下のように説明されている。

[それまでの流行りであった“イカ天バンド”などの流れとは一線を画し、1980年代のニューウェイブやギターポップ、ネオアコ、ハウス、ヒップホップ、1960年代・1970年代のソウルミュージックやラウンジミュージックといったジャンルを中心に、幅広いジャンルの音楽を素地として1980年代末頃に登場した都市型志向の音楽であるとされる。いとうせいこうは「渋谷レコ屋系」と分析し、「渋谷のレコード店に通い世界中の音楽を聴いたアーティストたちによって生み出された音楽」と述べており、渋谷系の共通点については、「オシャレ」、「力まない歌声」、「メインストリームとの絶妙な距離感」を挙げた](Wikipediaからの引用)。
“渋谷系”とは明確な音楽ジャンルではないので、[幅広いジャンルの音楽を素地]というのはその通り。ポストモダンとか、大きく言えばルネッサンスとかに近い概念だったと言ってもいいかもしれない。いとうせいこう氏の指摘もかなりしっくりくる。1980年代前半~1990年代半ばの渋谷はレコードの聖地だった。最盛期にはレコードを扱うショップが200店舗近くもあったそうで、大袈裟ではなく、世界中のレコードが渋谷に集まっていたという。音楽マニアたちはそこで古今東西、雑多な音源を漁りまくった。

もっともピチカート・ファイヴのメジャーデビューは1985年なので、小西康陽をはじめ、高浪慶太郎らオリジナルメンバーが全盛期の渋谷の街で積極的にレコード収集に励んでいたかどうか分からないが、小西が筋金入りのレコードコレクターであることはファンならよくご存知の通り。音楽コラム、レコード評での執筆でも知られているし、グラフィックデザイナーでありフォトグラファーでもある常盤響氏との共著『いつもレコードのことばかり考えている人のために。』では1,500枚ものレコードを紹介している。

また、こんな話もある。1998年、小西はふかわりょうとユニット、ROCKETMANを結成した。当初はふたりの役割が分かれていたそうで、小西が音楽担当、ふかわがコント担当となっていたが、曲作りの現場に足を運んだふかわは小西の仕事っぷりにかなりの衝撃を受けたという。バッグから何枚かレコードを取り出してプレーヤーに乗せてサンプリング。それを数回繰り返すといつの間にか曲ができていたと、ふかわは述懐している。幅広くいろんなジャンルの音源を大量に聴いて体内に吸収していなければ、とてもそんなことができるわけがない。天才の所業にふかわは舌を巻いたという。小西は自身の音楽を“録音芸術”と呼んでいたと聞くが、それはまさしくアートの域であった。

フリッパーズ・ギターのふたりがそうであったように、小西もまた一流のアーティストであると同時に、一流のリスナーであったことは間違いない。しかも、年齢から考えれば、渋谷がレコードの聖地となった頃にはそのスタンスを確立していた、全盛期の渋谷の街においてはマニアが羨望の眼差しを向けるような人物であったと思われる。その点では氏自身が好むと好まざるとに関わらず、まさしく小西康陽こそ“渋谷系”を体現したアーティストであったと言っていいと思う。ピチカート・ファイヴを聴くことでその向こう側に宏漠なる世界があることを知り、音楽の趣味が広がったという人も少なくなかったことだろう。

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最終更新:11/7(水) 18:12
OKMusic

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