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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】富永水軍(伊豆市土肥・八木沢) 伊豆衆の中で破格の所領役高

11/11(日) 7:55配信

産経新聞

 鎌倉公方の足利基氏から伊豆の海賊衆に宛てた「源基氏伝帖」(土肥神社蔵、後世の創作か)によると、伊豆半島西海岸には11人の族と城が記載され、土肥には「土肥高谷城主 富永備前守」がいたとある。今まで、この所在は不明で幻とされたが、平成8年の県道拡幅工事に伴う調査で、船溜りの港湾と広大な城域を持つ山城が発見された。遺構のほとんどは畑地開墾で損なわれたが、大堀切、土塁・曲輪をはじめ、北条流極意でもある畝状(障子堀)が認められ、大きな話題となった。

 「小田原衆所領役帳」には富永康景の本領が「千貫文 豆州西土肥」とあり、伊豆衆の中でも破格の所領役高であった。伊豆水軍を代表する勢力を有し、本城は八木沢集落の丸山城に置かれた。北条氏綱期に富永左衛門政直が江戸城代に抜擢(ばってき)された。政直の子・康景は氏政期に五家老の一人として江戸、栗橋の両城主となり、房総の里見氏戦線で活躍した。その後は一門の富永山随(康景の弟・政康)が守備したという。

 丸山城は高谷城と同様に、昭和59年から国道拡幅工事で発掘調査がなされた。広大な城域は、特に櫓台とか土塁、階段状の石垣工法で構築され、八王子城(東京都)に類似する珍しいものであった。興味深いことに、城兵たちは石鉢や摺石をつくり、金銀の精錬などをした廃材が利用され、富永氏の破格の財力の源を理解できるようで注目された。

 現地を踏査すると、富永氏本領の土肥郷を死守する北・南端域に築城された高谷、丸山両城の主要部は未完であった。おそらく、天正18(1590)年の豊臣秀吉による小田原攻めの際、豊臣水軍の来襲に間に合わなかったのか、すでに小田原籠城が決定していたために普請を中止したのか。激戦の陰で秘められた謎にロマンをかき立てられる。 (静岡古城研究会会長 水野茂)

最終更新:11/11(日) 7:55
産経新聞

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