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恩人の杉原千畝を忘れない 「命のビザ」で生き延びたフランケルさん

11/20(火) 1:38配信

北國新聞社

 第2次世界大戦中、外交官杉原千畝(ちうね)による「命のビザ」で生き延びたユダヤ人、ベルティ・フランケルさん(80)が19日、杉原ゆかりの地を巡るツアーの一環で初めて金沢市を訪れた。当時3歳だったフランケルさんは「杉原氏は命の恩人。偉大な外交官を決して忘れない」と、父から伝え聞いた功績を、現在暮らすイスラエルと日本の両国で語り継ぐ決意を新たにした。

 フランケルさんは、金沢や敦賀など6市町村でつくる「杉原千畝ルート推進協議会」の招きで、イスラエルのメディア関係者らとともに14日に来日した。金沢は直接の関係はないがゆかりの都市に近く、多くの外国人観光客が訪れる自治体として協議会に参加している。

 フランケルさんは妻ニラさんとイスラエルで暮らしており、2人の息子と6人の孫に恵まれた。父から杉原の話を何千回も聞き、自身も子どもに語り継いできたという。逃避行を「人生で最もショッキングで、最高に感動させられた体験だった」と振り返る。

 ポーランドで生まれたフランケルさんは、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻してきた1939年9月1日、父ベンジャミンさんや親戚、友人とともに、隣国リトアニアへ向かった。同国の日本総領事館で目にしたのは、米国など他国へ逃げようと、経由地である日本に入るためのビザを求める何千人ものユダヤ人だった。

 ある日、ベンジャミンさんが裏口に回ると、庭で水まきをしていた女性が扉を開けたまま館内に戻り、後を追って入ることができた。館内をうろうろしていると突然、1枚のドアが開いて男性が出てきた。それが杉原だった。

 「彼は父を追い出すことなく執務室に招き入れ、私や家族、親戚、友人らのビザを発給してくれたそうです」。一家は「命のビザ」を手に、旧ソ連・ウラジオストクから敦賀港に逃げ延びた。

 フランケルさんは「天草丸」で日本に向かった。海は大荒れで多くの人が船酔いした。食事はとても硬いパンだったが「ヨーロッパを離れ、安全な地に行けると思うと気にも留めなかった」と思い起こす。

 敦賀港に到着して食べたリンゴの味が、記憶に残っているという。「今まで食べた中で最も甘く、おいしかった。それ以降、甘いリンゴが大好物」。一家はその後、ニュージーランドに移り住んだ。

 フランケルさんは「杉原氏は人格、品性、人類愛全てが素晴らしい。彼の記憶をとどめるためなら、どんなことでもする」と、77年ぶりに踏んだ日本の地で、杉原への感謝の念を強くした。

 フランケルさんらは19日、兼六園や長町武家屋敷跡などを巡った後、金沢歌劇座で観光事業者向けセミナーに参加した。20日は敦賀港などを訪れ、21日に帰国する。

北國新聞社

最終更新:11/20(火) 1:38
北國新聞社

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