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『ボヘミアン・ラプソディ』が日本人の心をこんなにも揺さぶる理由

2018/11/27(火) 7:11配信

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ティーンの女子を洋楽ロックの世界に導いた最大の功労者

私がクイーンに目覚めたのは1977年のことだ。まだ小学生だったから、当時の彼らが日本のファンからアイドル視されていたかどうかは、よくわかっていなかった。ラジオっ子だった私は、それまでにもクイーンの曲をいくつか聴いて知ってはいたが、「伝説のチャンピオン」で雷に打たれた。近所のレコード屋でドーナツ盤を買い何度も繰り返し聴いた。外国のロックに夢中になるなんて、大人の階段を1歩上がったくらいの気持ちでいた。

クイーンを日本に紹介し、人気を盛り上げる旗振り役だった『ミュージック・ライフ』(以下、ML)の元編集長、東郷かおる子氏によれば「当時、日本で小学校高学年から中学生くらいの、洋楽の入り口に立っている女の子たちを導いた最大の功労者は、ベイ・シティ・ローラーズとクイーン」ということになるのだが、まさに私もそんな中の1人だった(ローラーズに興味はなかったが、と書き添えてしまうあたりがクイーン・ファンのプライド)。

「クイーン人気は日本から火がついた」説の真偽とは?

1976年、2度目の来日時の『ML』インタビューでメンバーは、日本におけるクイーン・ファンの大半を女子が占めていることや、年齢層が低いことに困惑を隠さず「日本の一般的なロック・ファンが僕らの音楽をどう思っているのか気になる」「これからはもっと幅広い層にアピールしたい」などと語っているが、これは欧米のファンと比較してのこと。

よく「日本から人気に火がついた」とされるクイーンだが、実際は必ずしもそうではない。本国イギリスで1974年3月にリリースされたセカンド作『クイーン2』が全英2位、続いて同年11月にリリースされたサード作『シアー・ハート・アタック』も全英2位を獲得、『シアー・ハート・アタック』からのシングル「キラー・クイーン」も全英2位を獲得と、立派な成果を挙げているし、ツアーでの動員も着実に増やしていた。

ただし、デビュー時からずっとそうだったように、この期に及んでも評論家ウケは良くなかったのである。そのことにメンバーは深く傷ついていた。そこに持ってきての日本での大歓迎ぶりに、メンバーが感激しないわけはない。1975年の初来日時は約1,200人のファンが羽田空港でバンドを出迎えた。

実は、日本においてもクイーンを胡散臭いものとして決めつけていた評論家やメディアはいたが、そんなものを寄せ付けないほどのイケイケ・パワーで『ML』がファンを扇動し、熱狂の渦を作り上げたのだ。

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最終更新:2018/11/27(火) 7:11
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