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野球を愛した母・兄と同じ心不全で…女子マネジャー急死

12/4(火) 10:19配信

朝日新聞デジタル

 糸魚川高校野球部のマネジャー、水島奈摘さんが10月8日、心不全で亡くなった。18歳だった。同じく心不全で2006年に次兄の樹人(みきと)君(当時9)、13年には母の正江さん(当時48)を亡くしていた。プロ野球BCリーグは1日、3人を「お参りする会」を開き、遺族や地元の友人、BCリーグのファンが集った。

【写真】ユニホームと写真が飾られた仏間で、友人らが3人をしのんだ


 「にぎやかになってきたね」。BCリーグの村山哲二代表がほほえんだ。水島家が同居していた親戚宅の仏間は15人ほどでいっぱいに。次々に訪れる訪問客が思い出にふけった。

 糸魚川高校野球部の前主将、黒山賢さん(18)は「奈摘は明るくてめちゃくちゃ元気。チームにとって欠かせないメンバーだった」と話す。夏の新潟大会ではベンチから「打て」「ここからだ」と声を張り上げ、選手を後押しした。亡くなったあと行われた3年生の送別試合では、写真の中で笑顔を見せる奈摘さんが再びベンチから見守った。黒山さんは言う。「これからも野球に関わりたい。奈摘たちのためにも――」

 水島家は3人きょうだい。一番上の兄、修斗(しゅうと)さん(25)が地元の少年野球チームに入り、下の2人も続いた。修斗さんは「樹人はすばしっこくて、無邪気な子だった」と話す。体は同学年の子どもより一回り小さかったが、自慢の俊足を生かす二塁手として活躍した。

 別れは突然だった。夏の市内大会準決勝。試合前にランニングをしていた樹人君が倒れた。居合わせた救急隊員が懸命に心臓マッサージを施し、運ばれた病院では小さな体に電気ショックが流された。正江さんが涙を浮かべ医師に伝えた。「もうやめてあげて」

 生前、「新潟にもプロ野球チームがあればいいな」と願っていた樹人君。正江さんは、当時北信越BCリーグ開設に向け奔走していた村山代表に手紙を送った。「息子の夢をかなえてください」。めどが立っていなかったリーグの背中を強く押し、翌年の開幕につながった。BCリーグは、樹人君が地元の少年野球チームでつける予定だった背番号「10」を全10球団で永久欠番にしている。

 アルビBCの試合に頻繁に足を運んだ正江さん。スタンドでは大声を上げて熱中した。看護助手として働き、きょうだいを育て上げた。午後5時には必ず仕事を切り上げ、3人と毎日夕食を共にした。持病の肥大型心筋症から心不全を起こし亡くなったのは、2013年12月だった。

 「母の死後、急に大人っぽくなった。自分がちゃんとしなきゃと思ったのかな」。修斗さんは奈摘さんに正江さんの面影を感じたという。奈摘さんは中学2年の時に精密検査を受け、母と同じ持病が見つかった。野球部で選手からマネジャーに転向。「誰かの喜ぶ顔を見るのが自分の喜び」とよく語っていた。

 今年6月、修斗さんは奈摘さんと、地元の美山球場で行われたアルビBCの試合を観戦した。夏の高校野球新潟大会の開幕直前の時期。「日本文理と試合ができたらいいね」「本気で甲子園に行きたい」。スタンドで交わしたこれが最後の会話となった。

 9月21日。学校から自転車で下校していた奈摘さんが心臓発作を起こし、倒れた。市内の病院から富山大学病院に救急搬送され、集中治療室に入った。この日は進学を希望していた松本大に推薦書を郵送する予定だった。元アルビBCの選手で、同大硬式野球部の清野友二監督から「ドラフト1位でほしい」と声をかけられていたという。

 修斗さんは仕事を休み、毎日のように病室へ通った。チューブが体中につけられ、昏睡(こんすい)状態が続く奈摘さんに声はかけられなかった。「どこかで覚悟はしていた。けど、こんなに早く……」。倒れてから17日後、息を引き取った。

 修斗さんは、長女(3)と次女(1)を「莉生(りみ)」「唯生(ゆき)」と名付けた。「樹人と母の分も生きてほしい」と「生」の字に願いを込めた。「この1文字に奈摘の思いも加わった。元気にすくすく育ってほしい。野球もやってくれるとうれしいな」。修斗さんの顔はやわらかな笑みに包まれていた。(中村建太)

朝日新聞社

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