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ソ連兵への”性接待“73年間語られなかった乙女の犠牲 岐阜・白川町黒川地区

2018/12/6(木) 14:00配信

中京テレビNEWS

 今から77年前の1941(昭和16)年12月8日は、旧日本軍がハワイのアメリカ軍基地に奇襲攻撃をかけ、太平洋戦争が始まった日として知られています。1945年8月15日に終戦を迎えてからも、一部の日本人には過酷な運命が待ち受けていました。

 70年以上タブーとされ、公に語られることがなかった悲惨な出来事。その悲惨な経験を後生に伝えようと、事実を語り続ける女性がいます。女性たちの命を懸けた犠牲についての証言です。

 岐阜県白川町・黒川地区。ここに「乙女の碑」という一体の像があります。

 この像がここに立つ意味。それを地元の人は語りたがりません。

「ずっとタブーにしてきた」
「そんなもん言えるわけはない」(地元の人)

 タブーとされ、秘密にされた出来事。それは70年以上前の出来事です。

 1932(昭和7)年から日本が事実上の植民地としていた中国北部の満州。日本は国策として、本土から満州に移住する人を募りました。

 この時、黒川地区からも多くの人が開拓団として海を渡りました。

 しかし、1945年8月、ソ連軍が満州に侵攻。その後、日本の敗戦が決まると中国人が暴徒と化し、襲ってきたのです。

 集団自決を選ぶ開拓団もあるなか、黒川開拓団はある決断をします。

 それは、侵攻してきたソ連兵に若い女性を差し出し、「性接待」を行うその見返りとして、暴徒から守ってもらうというものでした。

 開拓団の中から選ばれ、ソ連兵に差し出されたのは、当時18才から21才ぐらいまでの女性15人。その内の1人が佐藤ハルエさん(93)でした。

「ソ連の兵隊に(暴徒からの安全確保を)頼むには、女を提供するということで、私どもは犠牲になったわけ。(開拓団の男性たちに)どうかあんたら体をはって頼むといわれましたので、仕方ないわ、ここのためならと思いまして」(佐藤ハルエさん)

 ソ連兵に差し出された15人の女性のうち、4人は性病などで死亡。彼女たちの犠牲のおかげで、開拓団の7割以上にあたる約450人が、無事に日本に帰国することができました。

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最終更新:2018/12/7(金) 14:59
中京テレビNEWS

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