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【自慢させろ! わが高校】福岡県立筑紫丘高校(上)「ライバル校にないものつくれ」

12/9(日) 7:55配信

産経新聞

 ■伝統の体操/移転に反発、血書で談判

 降りしきる雨の中、野太い号令が響いた。

 「いち、にー、さん、し、ごー、ろくー、しちー、はち」

 9月8日、福岡県立筑紫丘高校の大運動会で、男子生徒全員が恒例の「筑高(ちくこう)体操」を披露した。

 生徒が身につけているのは、はちまきと短パンだけ。独特なリズムと抑揚の号令に合わせて、一糸乱れぬ体操を繰り広げる。

 膝を深く曲げて腰を下ろし、上半身を大きく回す。水たまりのできたグラウンドに、躊躇(ちゅうちょ)なくうつぶせとなり、背中を反らせ、両手両足を宙に浮かせたまま数秒間静止する。

 こうした動きには、「種まき」「飛行機」など呼称が付いている。

 生徒が動きをピタッと止めて、ポーズをとるたびに、会場から大きな拍手がわき起こる。

 たかが体操と侮るなかれ。ラジオ体操とは違い、筋力トレーニングの動きに近い。約5分間の体操を終えると、生徒は肩で息をする。

 大運動会には、多くの卒業生が訪れる。OBは現役生のでき映えを見て「今年の筑高も大丈夫だ」と目を細める。

 筑高体操が初めて披露されたのは、昭和27年11月の運動会だった。以来66年間、世代を超えて継承されてきた。

 卒業生で、現在は体育教師として体操を指導する荒牧祐司氏(57)=昭和55年卒=は「これほど長く受け継がれているものはない。筑高体操は、筑高の伝統そのものなんです」と胸を張った。

 歴史を振り返れば、筑高体操は確かに、「剛健」「叡智」「創造」を校訓とする高校の精神を、体現するものだった。

                 ■ ■ ■

 今、「筑高」や「がおか」と呼ばれる筑紫丘高校は、昭和2(1927)年、前身の県筑紫中学校が筑紫郡三宅村(現福岡市南区塩原)に開校した。

 戦後23年、筑紫中と、併設されていた夜間校の三宅中が合併し、県立筑紫高校となった。

 その年の7月、筑紫高関係者を「大事件」が襲った。

 福岡県が、筑高移転の方針を打ち出したのだった。当時、国が3つの旧師範学校を統一して、福岡学芸大(現福岡教育大学、同県宗像市)を設立することを決めた。ところが適した校舎がなく、県に探すよう求めた。

 県は、当時としては珍しい鉄筋コンクリートの3階建てだった筑高の校舎に、白羽の矢を立てた。

 自分たちの学舎が奪われる-。筑高関係者は憤った。

 同じ福岡市内にあり、ライバルだった修猷館高(創立1784年)、福岡高(同1917年)に比べ、歴史が浅いために狙い撃ちにされたとも考えた。

 在校生や教員、卒業生、PTAも巻き込んだ反対運動が起こった。

 「創立90周年記念誌」や同窓会報などによると、在校生は街頭で反対署名を集めた。教員や同窓会、PTAは県などに陳情を繰り返した。県庁前で座り込みもした。

 同県太宰府市長を3期12年務めた佐藤善郎氏(88)=昭和24年卒=は当時、3年生だった。「あの頃はまだ若かった。反対運動も激しかった」と振り返る。

 佐藤氏によると、天神の繁華街で署名活動をしていると、通行人から「交通の障害だ」などと冷たい声も浴びたという。

 23年の夏休みには、森戸辰男文部相が小倉市(現北九州市)を訪れると聞きつけ、直談判に同級生ら約10人と小倉に向かった。

 面談はできた。だが、森戸氏からは「そういうことは先輩に任せて。君たちの本分は勉強だ」と諭された。

 血の気の多い卒業生の1人は、ナイフで右手小指の先を切り、血書をしたためた。

 「自由の女神に誓ひて母校を死守す」

 血書を携え、東京のGHQ(連合国軍総司令部)まで嘆願に行ったが、受け取りは拒まれたという。

 抵抗むなしく、24年3月、福岡県議会は賛成32、反対24で校舎の転用を決めた。

 筑紫高は現在の同市南区野間へ移転することになった。移転先が小高い丘の上だったため、校名は今の「筑紫丘」に改称された。

 学校全体に暗澹(あんたん)としたムードが漂った。

 そんな生徒の士気を高揚させようと、考案されたのが筑高体操だった。

 当時の志和繁猪校長の「修猷、福高にないものをつくれ」という言葉を受け、体育教師がマスゲームや旧海軍の体操を参考に、動きの一つ一つを練り上げた。

 こうして昭和26年、筑高体操が完成した。志和氏の狙い通り、体操は筑高生徒に自信を取り戻させ、今に続く「筑高魂」を磨いていった。

                 ■ ■ ■

 平成8年、卒業から29年ぶりに体育教師として母校に赴任した松田輝文氏(70)=昭和42年卒=は、生徒の体操を見て違和感を抱いた。

 「自分が習ったのとは、少し違っているな」

 上体の起こしが中途半端であったり、動きをしっかり止めないまま、次の動作に移ったり、メリハリがないと感じた。

 ビデオ映像などがない時代、筑高体操は簡単な解説図や口伝によって受け継がれた。少しずつ変化するのは無理もなかった。

 「この体操は筑高生の誇りだ。なるべく原点に近づけよう」

 松田氏は、体操ができあがった当時を知る教員や卒業生の意見を聞きながら、生徒に指導した。

 といっても、単なる懐古主義ではない。昭和27年以来、体育教師がかけていた大運動会での号令を、生徒に担わせるようにした。

 例年9月に開催される大運動会のほか、5月の「翔丘祭」(文化祭)、3年生を送り出す1月の予餞会は、「筑高三大行事」と呼ばれる。

 筑高は自主性や主体性を重んじる。いずれの行事も、委員長を中心に生徒による運営委員会が企画、運営、進行を仕切る。教師はあくまでサポート役に徹する。

 ただ、変則的で難しい筑高体操の号令だけは別だった。

 「大運動会は、生徒たちが作り上げていくものだ。号令も生徒にやらせよう」。松田氏ら体育教師は、3年生から選出される4人の体操リーダー役に号令をたたき込んだ。

 卒業生からは「生徒に任せて大丈夫か」と不安の声も上がった。松田氏らは「失敗も経験だ」と踏み切った。

 「最初に生徒が号令をかけたのは、確か10年の大運動会だった」。松田氏は、こう振り返った。OBからも「なかなかの出来だった」との評価をもらい、ほっとしたことを覚えている。

 今年の大運動会で号令役に抜擢(ばってき)されたのは、3年生の大屋凜太郎さん(17)だ。「号令で筑高体操の張り詰めた空気が生まれる。その空気を壊してはいけない」。必死に声を振り絞った。

 同時に、伝統の重み、次の世代にしっかりと伝える大切さにも、思い至った。

 大運動会が終わると3年生は一気に受験モードに突入する。

 28年に退職するまで20年間、筑高に在籍した松田氏は「運動会で完全燃焼するから、受験への切り替えもしっかりできる。筑高体操がうまくいった年は、進学率も良い」と話した。

 昨春の進学実績は、東大6人、京都大14人、九州大105人(卒業生含む)。ライバルの修猷館、福岡にも引けをとらない。

 大屋さんは、今はまだおぼろげだが、リーダーとしての経験を糧に、将来像を描く。「人望を持って、周りを引っ張っていける人間になりたい」 

(九州総局 小沢慶太)

最終更新:12/9(日) 7:55
産経新聞

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