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【静岡・古城をゆく 北条五代の史跡】下田城開城(下田市鵜島)

12/9(日) 7:55配信

産経新聞

 ■陸海から包囲 籠城50日の末

 北条氏は天正18(1590)年2月、豊臣秀吉の小田原征伐に備えて河村城(神奈川県山北町)や足柄城(小山町)、山中城(三島市)、韮山城(伊豆の国市)という天下の険である箱根西山中に前線を配した。さらに豊臣水軍に対して水軍拠点をこれまでの長浜城(沼津市)のほかに、新たに伊豆半島南端に下田城を築き、対決態勢を整えた。その準備は早く、16年の史料には「西国勢於出張者、船動歴然候、依之豆州奥郡之為備、下田之地取立候、此度当城主ニ定置上、…弥上野(清水康英)ニ任置候」と記される。

 まさに強大な豊臣水軍の来襲を看取し、伊豆衆筆頭の清水上野介康英(南伊豆加納郷)に命じて築城した。下田城の守備は清水康英をはじめ弟の清水英吉、小田原から江戸朝忠ら援軍も駆け付けた。伊豆衆では雲見の高橋丹後守(清水氏同心)、妻良(めら)の村田新左衛門、小関加兵衛、子浦の八木和泉守らも入った。ところが、伊豆水軍の将・梶原景宗は「寺曲輪」と船着き場に欠陥があるとして入城を拒否。清水康英との対立が原因で、このため守備兵は600余だったという。

 豊臣水軍は2月、大挙して清水港に集結した。3月上旬には長曽我部元親や九鬼嘉隆、脇坂安治、加藤嘉明のほかに毛利氏の水軍も加わった総勢1万4千余が伊豆の北条水軍基地へ押し寄せた。4月に入り、伊豆西海岸の安良里(あらり)城、田子城など伊豆水軍基地は徳川水軍に攻略された。海上からの下田城攻めは脇坂安治の「脇坂記巻上」に詳しく、「清水より各兵船に取乗。豆州下田に至り。城より七八町東南小山の麓に船を着。各船よりあかりて下田の町を放火し。彼城を取巻。漸大手の木戸口へ押寄せ攻けり」とある。

 この記録から、豊臣軍は常套(じょうとう)手段である陸海両面から下田城を包囲し兵糧攻め的な作戦を取った。籠城は50日以上に及んだが、清水康英らは4月23日、脇坂安治、安国寺恵瓊(えけい)に投降した。康英は開城後、河津林際寺から矢野の千手庵に身を寄せ、翌年6月に没したという。

 下田城は下田湾に突き出た鵜島という半島丘陵上にあり、城跡は「あじさい下田公園」として知られ、6月頃から多くの観光客でにぎわう。公園を分ける南北軸稜線(りょうせん)の南域に入ると、巨大な堀跡がすぐ目につく。山上は比較的痩(や)せ尾根状で長く、大きな曲輪ではないが、約14メートル下には畝堀(障子堀)が城域を包むように続く。約600メートル以上に達する巨大城郭は山中城、韮山城と並んで北条流大極意の美学を今に伝えている。(静岡古城研究会会長 水野茂)

最終更新:12/9(日) 13:46
産経新聞

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