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内田雅也が行く 猛虎の地<8>阪神電車・武庫川駅の下

12/9(日) 8:00配信

スポニチアネックス

 ◇若虎・掛布が夢を描いた橋の下

 阪神電車・武庫川駅は川の上に駅がある。武庫川をまたぐように約200メートルの長いホームがあり、両端に駅舎がある珍しい構造をしている。

 この橋の下が若き掛布雅之の練習場所だった。橋脚の壁にボールを投げあて、バットを振り、河川敷を走った。

 ドラフト6位とはいえ事実上のテスト入団だった。習志野高3年の1973(昭和48)年秋、父・泰治や叔父・春山正二が元阪神トレーニングコーチの篠田仁に相談し、阪神に紹介した。千葉商高の監督、選手でつながる縁だった。78年刊行の五百崎三郎『ほえろ!若トラ』(講談社)に『運命のテスト7日間』と篠田の手記があった。11月に1週間、特例の研修という形で阪神2軍練習に参加し、監督・金田正泰ら首脳陣が力量をはかった。結果は「合格」で指名となった。

 1年目の74年2月、高知県安芸市でのキャンプメンバーにも選ばれず、甲子園球場での居残りとなった。練習後、球場横にあった合宿所「虎風荘」で夕食をとると、屋上でバットを振った。そして時には走って、時には自転車で武庫川堤防まで来た。夜は暗い河川敷だが、駅の下は漏れてくる照明で明るかった。

 後に育成&打撃コーディネーター(DC)、2軍監督と指導者となった際、選手たちに「一人でする野球を大切にしてほしい」と呼びかけた。個人練習で自身と向き合う重要性である。駅の下で壁を相手に独りで夢を描いた日々が生きたとの実感があったのだろう。

 1年目のオープン戦。出世物語として3月22日太平洋(現西武)戦(鳴門)の2安打2打点や24日近鉄戦(日生)の4安打がある。二塁手・野田征稔が父親危篤で長崎に帰省、遊撃手・藤田平が結婚式で不在となり、チャンスをつかんだという有名な逸話である。

 ただ82年に出した自著『猛虎が吼(ほ)えた』(恒文社)では<野球人生を大きく変えてくれた生涯忘れてはならない安打>として18日の南海戦(甲子園)をあげている。

 2軍戦(西宮)を終え、甲子園に戻ると1軍は試合中。1軍マネジャー中村和富から「そのままベンチに行け。監督が来いって」と呼ばれた。

 8回裏2死三塁で代打で起用された。14日・日本ハム戦(皇子山)での代打(凡退)以来、2試合目の出場。野崎恒男から二遊間をゴロで抜く中前適時打を放った。スター街道を切りひらく1軍初安打だった。

 寒い日で観衆発表わずか1500人。翌朝の本紙に掛布の記事はない。同い年で法大に進んだ江川卓(作新学院)初練習が1面左肩にある。雪の中を佃正樹(広島商)と並んで走る写真があった。掛布は恐らく、その夜もあの駅の下に向かったのだろう。=敬称略=(編集委員)

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