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「根性」が嫌い…もう一人の「日本マラソンの父」の偉業 “いだてん”金栗四三の盟友・岡部平太

2/1(金) 8:10配信

西日本スポーツ

 NHK大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺(ばなし)~」の主人公として今年、大きくクローズアップされる金栗四三。しかし、その「日本マラソンの父」を突き動かして科学トレーニングを導入し、コーチとして次々に名選手を生み出した盟友がいたことは、あまり知られていない。明治、大正、昭和の激動期に波瀾(はらん)万丈な生涯を送ったその男の名は、岡部平太という。

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■科学トレーニングを日本で初めて導入

 インターバル走、高地トレーニング、選手の疲労回復を促す検査や食事の研究-。現在のマラソンでは当然のように行われる科学的な強化法を、初めて日本に導入したのが岡部平太だ。1950(昭和25)年、金栗四三に提案して「オリンピックマラソンに優勝する会」を結成。数々の名ランナーを育てた。

 結成の翌年、早くも成果は表れた。指導を受けた田中茂樹がボストン・マラソンで日本人初優勝を果たしたのだ。その後も53年山田敬蔵、55年浜村秀雄、65年重松森雄と、薫陶を受けた選手たちがボストンを制した。

 会の結成当時、マラソンに限らず、日本スポーツ界は精神論や根性論に占められていた。それに反するような指導の連続。田中は参加当初の困惑を「不思議な練習が多かった」と振り返る。

 400メートル、1500メートルなど距離を決め、緩急をつけて走らされる。日本では浸透していなかったインターバル走だ。岡部から「マラソンはスピードだ」と言われたのにも??? 「今では当然だが、その頃、そんなことを言う人はいなかった」。合宿では走る前後の血液や尿を採取し、疲労度を計測。60年ローマ五輪でアベベ・ビキラ(エチオピア)が優勝すると、岡部は高地での生活が心肺機能を高めたとする説を確かめるため、単身で現地へ飛んだ。

■スポーツ万能 あらゆる競技を貪欲に

 1891(明治24)年、福岡県・糸島半島の芥屋村で生まれた。幼い頃からスポーツ万能で、講道館柔道の創設者、嘉納治五郎に師事して上京。東京高等師範学校(現筑波大)を経て、米国で科学トレーニング理論を習得した。金栗とは同い年で、嘉納を師と仰いだところも同じだ。

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