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ヘンリー・フォードがアマゾンに作ったユートピア、なぜ失敗したのか?

2/11(月) 20:11配信

BUSINESS INSIDER JAPAN

フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォードは1920年代、アマゾンに注目した。ゴムのプランテーションを作り、フォード車のタイヤの原料の供給源とするためだ。

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「フォードランディア」と呼ばれた町は、ビジネス以上の場所だった ― フォードはそこに理想のアメリカ社会を築こうとした。

ブラジル・アマゾンの熱帯雨林の奥に、産業都市の廃墟がある。まず最初に目に入るのは、色あせたフォードのロゴが残る給水塔。

およそ100年前、フォード・モーターの創業者ヘンリー・フォードは、ここで単にビジネスだけではなく、一種の社会実験を試みた。

「フォードランディア」 ―ヘンリー・フォードが目指したユートピア都市であり、産業都市はいかにして生まれ、いかにして崩壊したのか。見てみよう。

フォードランディアを知らなくても問題ない。グーグルが知っている。検索すると、ブラジルのアヴェイロ(Aveiro)という街にあることが簡単に分かる。

そして今もそこにある。ブラジル北部、タパジョース川のほとりにその名残りを見ることができる。

現在の姿からは考えられないかもしれないが、数十年前、ここは新しい産業のあり方を目指すヘンリー・フォードの輝かしいアイデアを結実させる場所だった。当初は成功するかに思えた。

1920年代はじめ、ヘンリー・フォードはアメリカで大成功を収めていた。フォード・モーターは数千台の車を販売し、タイヤの原料として大量のゴムを使っていた。

当時、アマゾンは世界唯一のゴム供給源であり、工業化の進んだイギリスやアメリカにゴムを輸出していた。

だが、事態は一変した。イギリス人探検家ヘンリー・ウィッカム(Henry Wickha)が数千ものゴムのタネをアマゾンからイギリスにこっそり持ち出した。

イギリスは東南アジアの植民地でゴムを育てた。ブラジルとは違い、害虫の被害を受けることなくゴムは成長した。

突然、ブラジルはゴム貿易における地位をイギリスに奪われた。そして、それはフォードを心配させた。

フォードはアマゾン熱帯雨林に自社のためのゴム供給源としてプランテーションを建設することにした。

フォードはブラジル政府から広大な土地を購入。ブラジル政府は、ゴム貿易の独占を失った打撃からまだ立ち直っておらず、フォードを歓迎した。

1928年、フォードは物資とともに代理人をブラジルに送り、プランテーションを監督させた。

そしてフォードランディアは正式に設立され、製材所と給水塔が建設された。給水塔にはフォードのロゴが描かれた。

採取したゴムを運ぶために、森が切り開かれ、道が作られた。

フォードの目標はプランテーションから3万8000トンの天然ゴムを採取すること。

ゴムはデトロイトの工場に送られる計画だった。

だが森を切り開いたのは、プランテーションのためだけではなかった。町を作るためでもあった。

フォードランディアはビジネスであると同時に、町だった。

従業員と家族はフォードランディアに作られた従業員用住宅で暮らした。

建物はフォードが慣れ親しんだアメリカ中西部の家に似ていた。

ブラジルの先住民もフォードランディアの工場の従業員として雇用された。

そして従業員用住宅で暮らした。

フォードはフォードランディアの従業員にしっかりと給与を払い、タイムレコーダーでの勤怠管理や1日8時間労働といった就業慣行を取り入れた。

福利厚生も充実していた。プールや、ゴルフコース、そして学校。

多くの先住民は初めて教育に触れた。

町をまわる交通システムも導入された。

そして子どもはボーイスカウトに参加できた。

墓地も作られた(今も存在する)。

近代的な病院もあった。

従業員は無料で治療が受けられた。

フォードランディアは、フォード車のために大量のゴムを採取するだけでなく、自身の倫理観とイデオロギーに基づいた完璧なアメリカ社会を実現するというヘンリー・フォードの理想を実践する場所だった。

だが公共ラジオ局NPRによると、牧歌的な構想に思えるが「フォードランディアの最初の失敗は社会的な面だった」。

従業員は厳格なルールや就業慣行に従うことが求められた。

フォードランディアの住民はベジタリアンだったフォードにならい、肉抜きの食事を食べた。玄米、全粒粉のパン、オートミールなどだ。

詩の朗読や英語の歌を歌う集会への参加が求められた。飲酒は禁じられた。

多くの従業者はこうした規則に反発した。1日の仕事の疲れを癒やすために近くの島に酒場を作る者も現れた。島は「純潔の島(Island of Innocence)」と呼ばれた。

フォードはダンスホールも作った。自身がそうであったようにブラジル人従業員にもスクウェアダンスに熱中して欲しかった。

事実、フォードは自らが決めたすべての社会的慣習にフォードランディアのブラジル人従業員が従うことを望んだ。

だが結局のところ、従業員はフォードのアメリカ的な理想主義と文化的に衝突した。

転機は1930年に訪れた。食堂がテーブルで注文を取る方式をやめ、カフェテリア方式のセルフサービスに変えた時だ。

従業員は暴動を起こした。タイムレコーダーなどフォードランディアの多くを破壊した。被害は当時の金額で数千ドルに及んだ。

暴動は最終的には収まり、フォードランディアは秩序を取り戻した。だが文化的な摩擦は、フォードランディアを悩ませた多くの問題の1つに過ぎなかった。

ゴムの木はブラジル原産にもかかわらず、うまく育たなかった。

フォードランディアで栽培を始める時、フォードはゴムの木の植え付けについて植物学者に相談することを拒んだ。

助言を受けることなく、高温の乾季にゴムの木の最初の植え付けを行った。木は弱っていった。

木を植え付ける間隔が狭く、安定した水源から離れていた点もフォードのミスだった。菌や病害虫が発生しやすくなり、新しい芽に大きな被害を与えることになった。

結果的に葉は枯れ、苗木はだめになった。ゴムの木からほとんど何も取れなかった。採取できたのは、わずか750トンのゴムの樹液。フォード車に使われることはなかった。

最初の数年でかなりの失敗をしたにもかかわらず、フォードはプロジェクトに多くの資金を投入し続けた。1933年、より良い土壌を求めて場所を下流に撮した。新たな土地をフォードはベルテラと名付けた。だが、また失敗した。

デトロイトから来た社員にとっても、簡単な仕事ではなかった。蒸し暑い気候には慣れなかった。家族、特に妻たちにとっては何もすることがない場所だった。

最終的な打撃はその後、合成ゴムが登場したこと。フォードランディアは完全に存在意義を失った。

ついに1945年、フォードはかつて希望に輝いていたプロジェクトを打ち切り、土地を25万ドルでブラジル政府に売却した。

最終的に損失額は2000万ドル(現在の価値で約2億ドル)という驚異的な額に達した。

プロジェクトの期間中、フォードは一度もフォードランディアを訪れなかった。ミシガンから指揮を執った。

それから約80年、廃墟となった工場がフォードランディアの失敗を物語っている。

給水塔には今も色あせたフォードのロゴが残っている。

工場は見捨てられたままだが、フォードランディアには今も約3000人のブラジル人が住んでいる。

その多くは牛の取り引きや地元のビジネスに携わっている。

かつての近代的な病院も崩れ落ちている。

今はコウモリしかいないようだ。

興味があれば、町を観光し、近くにあるホテルに泊まることもできる。

建物が朽ちていなければ、ブラジルの平凡な田舎町のように見えるだろう。

[原文:Henry Ford built a utopian city inside Brazil's Amazon rainforest that's now a ghost town ― take a look around the abandoned city that was once 'Fordlandia']

(翻訳:仲田文子、編集:増田隆幸)

最終更新:2/11(月) 20:11
BUSINESS INSIDER JAPAN

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