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仲邑菫さんも修業した囲碁「関西棋院」 始まりは反東京

2/13(水) 18:57配信

産経新聞

 1月5日、日本棋院は、大阪市の仲邑菫(なかむら・すみれ)さん(9)が、4月に史上最年少のプロ棋士としてデビューすることが決まったと発表した。菫さんが所属するのは日本棋院関西総本部。一方、菫さんは韓国に留学する直前の平成29年には関西棋院で修業していた、という。「日本棋院」と「関西棋院」、2つの組織の名前に、あれっ、と思った人もいるかもしれない。

 日本棋院も関西棋院も囲碁のプロ組織で、日本棋院は本拠地が東京、関西棋院は大阪。別の組織だが協力関係にある。

 だがかつては、たもとを分かっていた時期があった。もともと両者はひとつの組織だったが、昭和25年、東京の中央集権体制に反発した関西の一部棋士らが日本棋院から独立、設立したのが関西棋院だ。

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 日本の囲碁界は、さまざまな組織が離合集散を繰り返した末に、大正13年に創立した日本棋院にまとまっていた。しかし、日本棋院は東京に本拠があり、囲碁界は自然と東京中心に。戦災に遭った日本棋院は戦後、復興するのだが、関西の棋士への冷遇が目立つようになった。

 たとえば、五段以上の場合は、昇段試験は東京で対局しなければならなかった。さらに、四段以下の棋士が東京で対局するためには、資格審査が課せられた。新幹線のない時代、東京に赴くには一日がかり。しかも自費だ。宿泊先も確保しなければならない。棋戦のたび、戦う前から関西棋士たちはそんなハンディを背負わされた。関西棋士の間では、不満がくすぶっていた。

 現在囲碁界には七大タイトル戦がある。しかし当時は本因坊戦のみ。そのただひとつのタイトルを握っていたのが、関西勢のトップ棋士、橋本宇太郎(うたろう)九段だった。橋本九段は、本因坊戦が創設されてまもない第2期(昭和18年)に本因坊に。その後はタイトルを失ったが25年、岩本薫九段から2度目となる本因坊を奪取する。トップ棋士、関西にあり。「これを機に独立すべきだ」。独立の機運が高まった。

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 一方、関西勢の中にも、独立は得策ではない、と主張する協調派の棋士たちもいた。独立しても棋士の数は少なく、対局も減る。生活していけなくなり、現実的ではない、とする意見だ。

 独立派と協調派に分かれたが、間もなく橋本九段を盟主とした独立派が、二十数人で日本棋院を飛び出し、25年9月「関西棋院」を設立する。そして残った協調派は、「日本棋院関西総本部」を立ち上げた。

 翌年の26年、橋本九段門下で入段した東野(とうの)弘昭九段(79)は当時を振り返り、「所属が師弟で分かれることもあった」と話す。

 日本棋院は、関西棋院には厳しい対応をとった。関西棋院所属の棋士は、日本棋院所属の棋士とは対局ができなくなった。対局による収入や、新聞への棋譜の掲載料などが減り、特に低段の棋士の生活は苦しくなった。東野九段は「橋本先生が、詰め碁の原稿料を棋士の手当として分配していたようです」と話す。

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 26年、本因坊を保持していた橋本九段の防衛戦が行われた。関西棋院の棋士たちは、収入源など苦境に陥ったとはいえ、唯一のタイトルである本因坊を保持した橋本九段が君臨するからこそ、独立したばかりの組織である関西棋院に一定の発言力があった。橋本九段が本因坊を失えば、関西棋院の存在そのものを忘れ去られ、次から予選にすら参加できないのでは、という危機感があった。「東京何するものぞ、という雰囲気でした」と東野九段は振り返る。

 挑戦者は坂田栄男(えいお)九段。橋本九段は関西棋院の存亡を、坂田九段は日本棋院のプライドを懸けて対戦した。

 七番勝負は橋本九段の1勝3敗。崖っぷちとなり、だれもが敗北を覚悟した第5局、橋本九段は勝利を収め、3連勝で逆転防衛を果たした。タイトルを防衛しただけでなく、生まれてまもない関西棋院という組織そのものを守ったのだ。

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 その後、昭和20年代から30年代前半にかけ、各新聞社が棋戦を開始。産経新聞も29年、十段戦の前身となる早碁名人戦を開催している。棋戦が増えるにしたがって東西のあつれきは薄まり、争いの舞台は盤上に移った。橋本九段をはじめ、橋本昌二九段、半田道玄九段ら関西棋院の棋士が七大タイトルをいくつも獲得。存在感を示した。

 来年、関西棋院は設立70年を迎える。第57期十段戦で井山裕太十段の挑戦者に決まっている村川大介八段(28)らトップ棋士をはじめ、韓国、台湾、アメリカなど海外出身の棋士も含め、男女合わせて138人が在籍。中国や韓国など、世界の強豪に対抗するため、関西棋院、日本棋院ともに日本の囲碁界を盛り上げている。(中島高幸)

最終更新:2/13(水) 19:10
産経新聞

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