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もっとも鮮烈な印象を受けたヴォアチュレット「アミルカーC6」|JACK Yamaguchi's AUTO SPEAK Vol.9

2/28(木) 22:21配信

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ヴォアテュレット、フランス語で『小型自動車』には、合縁奇縁を感じる。半世紀以上前、私はイギリスに着くや、とんでいったロンドン・レスタースクエア裏通りの自動車書籍専門店で一冊の中古本を買った。その本のタイトルや著者は思い出せないが、第一章が『勝つためにつくられたたった一回のため』だったことは覚えている。1939年、トリポリ・グランプリでの勝利のために、超短時間で製作されたメルセデス・ベンツW165が主題であった。

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私が在英期に観戦したヴィンテージカー・レースで活躍していたのがE.R.A.だ。知己を得たBRM F1チーム主宰者のレイモンド・メイズは、E.R.A.創設者でレーシングドライバーでもあり、資料を提供してくれた。E.R.A.で活躍したのが、アジア人最初のGPドライバーであったシャム王国(現タイ)の“ビラ”王子ことビラボングセで、王子は私の旧友、アレックス・モールトンのケンブリッジ大学時代のレース仲間だった。大戦後のアメリカのヨーロッパ型レーシング黎明期に、神聖なるブガッティを改造しまくった異才エンジニア、ビル・ミリケンの冒険と交友した。これらは、次から順不同で紹介しようと思う。

私がもっとも鮮烈な印象を受けたヴォアチュレット・スポーツレーシングカーは、今から5年前に遭遇の幸運を得たフランスの“アミルカーC6”である。

1920年代の欧米自動車普及に貢献したのが“サイクルカー”、2人乗り軽量低価車格車だ。フランスでは、普及政策によりエンジン排気量1100cc以下、最大重量350kgと定めた。

“アミルカー”なる名称は、投資設立者のジョセフ・ラミーとエミーユ・アカーのアルファベットの組み合わせなので、これは少々ロマンに欠ける。

1921年パリ・サロンでプロトタイプが展示され、翌22年に4気筒903ccエンジン搭載“CC”を発売した。アミルカー権威のフウルニエは、CCはサイクルカーの頭文字とするが、元シトロエン技術者であった設計者の憧れ説もある。アミルカー社は、当時の起業型メーカーとしては希少な、エンジンとシャシーを自製する一社であった。

1922年には、1004ccエンジン搭載の“C4”が発売された。車重が350kgを超えたので、“ヴォアテュレット”となった。アミルカーは、軽快、機敏なスポーティな素質を有し、それが人気につながった。C4からスポーツ“CS”、グランド・スポーツ“CGS”、そしてローボーイ“CGSS”が派生した。いずれも、CCをベースとして排気量をC4、CSは1004cc、CGSとCGSSが1075ccに拡大、出力向上した4気筒を搭載した。基本設計はサイドバルブであり、高回転型ではなかった。

アミルカーにとって市場とレースでの宿敵が、航空エンジンと航空機メーカーで、第一次世界大戦後に自動車に進出したサルムソンであった。1920年代前半、サルムソンはDOHC高回転型エンジンを投入し、ヴアテュレット・レーシングを席巻していた。

1924年、アミルカー経営陣は、主任設計者エドモン・モエにワークスレーシングカー“CO”の開発を命じた。6台の部品を準備し、ロングとショート・ホイールベースの2種を5台製作し、25年末にはヒルクライムに出場している。1929年まで、ワークスCOは、ヨーロッパのヴォアテュレット・レースを制覇し、なんと1929年インディ500にも出場した。地元米紙は、「たった1100cc(実際は1270cc)の最小の車…、8気筒車群中唯一の6気筒の“英国製”(誤解!)…、数回ウオールにクラッシュ…」と報じた。実際は、ステアリング・トラブルでウオール脇に停ると、撤去規則によりオフィシャルたちがオール越しに放り出した。これがクラッシュ、転覆と報じられた。

2011年10月1日土曜日(先勝)気温25度の快適な晴天。私の畏敬す人と彼の車、そして卓越した守護メカニックに会う。川本信彦元本田技研社長、1927年アミルカー“C6”、そして石川達(とおる)オフィチーナイシカワ工房主である。

告白するが、私のアミルカーC6の知識は、アミルカー社がワークスカーCOで優れた戦績を上げ、その設計を基に顧客向けに限定数製作した『カスタマー』・レーシングスポーツカーという程度であった。事実、要約するとその通りなのだ。

6気筒ワークスカーCOのレース成功は、アミルカー社の今風にいうブランドイメージ急上昇をもたらせた。顧客は、ワークスカーと同型の6気筒スポーツレーシングカーを切望した。量販は望めないが、経営陣は開発と少数製作を決定する。

当時の仕事は早かった。1925年のパリ・サロンには、C6シャシーと初戦ヒルクライム優勝COが展示された。C6の発売は1927年になる。50~60台製作といわれるが、最終的には不況もあり、正確な台数は不明である。

ワークスCOとの大きな差はエンジン構造である。ワークスはシリンダーヘッドとブロックが鋳鉄一体構造で、バブル組み付けがたいへんな難作業であった。鋼材から削り出したクランンクシャフトは、7ベアリング支持で、両端がボールベアリング、中の5個が分割ケージのローラーベアリングであった。2本のカムシャフトは小さなフィンガーアムを介してバルブ駆動する。吸排バルブ挟角は100度と広い。エンジン外観もそのように見える。カムシャフト駆動はエンジン後端の平ギアトレイン、潤滑はドライサンプ、ルーツ型スーパーチャージャー、ソレックス気化器を用いた。ワークスの燃料はアルコールを主成分とする混合燃料であった。

一方、顧客向けC6は、鋳鉄別体シリンダーヘッドとブロック、鋼材削り出しクランクシャフトは7ベアリング支持だが、両端がボールベアリング、センター5個はホワイトメタルである。DOHCは平ギアトレイン駆動、バルブ直打式で、半球形燃焼室、吸排バルブ間角度は76度である。ドライサンプ、ルーツ型スーパーチャー、ソレックス気化器はCOと同タイプ。許容最高回転は5700~6000rpmとされる。

トランスミッションは乾式ドライプレート1枚クラッチ、4速ギアボックスで、基本的にはCO同型だ。

C6構造は概略にとどめる。梯子型フレーム、前1/4リーフスプリング支持リジッドアクスル、後1/4カンティレバー・リーフスプリング支持リジッドアクスル、4輪ドラムブレーキなどは、ワークスCO継承している。ちなみに、アミルカーは早くから4輪ブレーキを採用していた。

ボデイは、鋼材骨格に取り付けた鋼板製2席オープンで、ドアやソフトトップなどの便利快適装備は皆無である。サイクルウイング(フェンダー)とパッセンジャー横を走る排気管上カバーは標準ではなく、別製したもの。

2011年に石川さんの工房で見た川本さんのC6は、レストアされイギリスから到着した直後で、まだ公道走行のための登録はされていなかった。ホイール/ブレーキドラムを外し、ジャッキ上で始動を待っていた。これが私の生まれる7年前に製作されたスポーツレーシングカーであるということに驚嘆した。機械と機能美は衝撃的で、設計、開発、製作した先人たちに深い敬意を抱いた。

アミルカー・ワークス活動終了後の1929年から、ヨーロッパ、イギリスのヴォアテュレット・レースにおいて、顧客達の大活躍が展開された。

川本さんは、1996年グッドウッド・フェスティヴァル・オフ・スピードからの帰途、ホンダ英国工場が所在するスウインドンにあるアシュレー・ケインズ・ヴィンテージ・レストレーション(AKVR)に立ち寄った。「キース(ボウリー、同社創設者)のC6に試乗、これだ!となった」と記している。彼がC6に惚れ込んだ理由について、石川さんは、「芯からの技術者である川本さんは、アミルカーの基本設計、技術の真正を見抜かれたのでしょう」と推察する。

元モーターサイクルGP、F1ワールドチャンピオン、元F1チームオーナーのジョン・サーティースも、川本さんのためにC6について助言とエクスパートの紹介の労をとった。もうひとりのキーパーソンとなったボブ・グレイヴスは、通信、電子機器で財を成した実業家で、2台のC6を所有し、全部品の図面を起こし、レストアのために製作能力を有していた。彼の1台は、よくいう「現在の技術で再現したらどうなるだろう…」をやりすぎ、まったく違う最新技術を入れた。異様に速かったが、英ヴィンテージカークラブ(VSCC)のレース出場資格を失ったという。ヴィンテージとは、オーセンティシティ(ホンモノ)を重視するのだ。

川本さんのC6は、イギリスAKVRでレストア、組み立てを終え、日本で完成し、その後に公道走行ナンバーを取得した。しかし、すでにメーカーも存在せず、純正補修部品は皆無で、レストアといっても、多くの部品を製作している。直ちにレーシングスポーツカーとして走れる状態ではなかったと石川さんは言う。慎重に慣らし運転を行いながら、馴染ませていった。

ここで石川達(とおる)さんを紹介しよう。1968年日光生まれ、育ち。中学卒業作文には、レーシングドライバーになり、ル・マン24時間に優勝すると書いたという。しかし、レーシングドライバーではなく、車を造る方を目指し進学、機械工学を学んだ。造るよりクラシックカーを直したくなり、クラシッカー整備工場のブガティックを主宰する阪納誠一社長に雇ってくれと懇願するが、断られた。阪納社長の助言に従い、サラリーマン3年やった後、再度依頼し、今度はしぶしぶ入れてくれた。入社して暫くして、ガンで余命半年と知った阪納社長から独立せよと命じられる。以来、13年、石川さんはワールドクラスと認められるレストアラーを目指してきた。2000年グッドウッド・フェスティヴァル・オヴ・スピードには、ホンダ・サポートチームの一員として参加したこともある。これまで多くのクラシック、ヴィンテージカーのレストア、サービスを手がけてきた。川本さんは、「技術を論議できるメカニック」として信頼する。

2013年4月20~21日、フランス・モンレリー・サーキットにおいて“ヴィンテージ・リヴァイヴァル・モンレリー”が開催された。副題は『レジェンドの復活がやって来る!』である。

川本さんは英仏の友人たちに誘われ、C6を持って出場した。石川さんは、C6と日本から参加したブガッティT37Aの参加者のために、メカニックとして同行した。

パリ南方30kmのモンレリーの町にあるオーバルを含むサーキットで、バンク部は支柱を立てた建造物だ。私も1960年代にパリ・サロンのフランス車テストデー(当時は、英独仏のモーターショーのイベントとして、その国の新型車メデイア試乗会が開催された)で走ったことがあるが、バンク部はあのシトロエンでさえバンピーであった。最頂レーンに登ろうとしたが、速度に乗らず転げ落ちた某低速車があった。リヴァイヴァル出場車は、四輪、三輪が238台、加えてモーターサイクルが走った。

“川本C6”が走ったクラスEには41台が参加したが10台がアミルカーC6、さらにクラスAでは41台中14台が4気筒アミルカーだったのは驚きだ。川本C6は、イベント最高賞グランプリを勝ち取る。しかし、最終ランでギアボックスを壊し、修理のため海外在留を余儀なくされる。

2015年晩秋、石川さんがクランクを回す(電動スターターはない)。C6のDOHC6気筒が吠える。パッセンジャーシートになんとか収まり、ハンドグリップを掴む。レーシングシューズか、よほど細身の靴でないとペダル操作は無理なほど、ドライバーの足元はタイトなスペースだ。この車を知り尽くした石川さんのドライビングと、さぞかし硬いと予想した乗り心地の意外なよさに驚いた。「歌ではなく、歌い手」とは、人のスキルを表現する句だが、人馬一体の語源のような、力強く、軽快な同乗体験であった。

空、陸の技術異才、旧友故ビル・ミリケンは、戦後のアメリカでブガッティT35Aを入手し、1947年パイクスピーク・ヒルクライムをはじめ、ロードコース、ヒルクライムで暴れまくった。イベントへの往復2~300kmは軽く走って行ったという。石川さんは、「タイプ35A、37などブガッティの人気は、公道使用が可能なこともあります。アミルカーC6もそうなのです」と語る。ちなみに日本に存在するのは川本C6のみ。石川さんによると、他のコノサーがC6エンジン単体を所有しているという。

スポーツレーシングカーのホームはサーキット。ツインリンクもてぎのショートループを走るC6と、見る目、駆る腕をもつオーナーは、“クラシック”の語源、「最高の」、「典雅な」人馬一体であった。

アミルカーに関与した悲劇である。イサドラ・ダンカン(1878~1927年)は、アメリカ生まれの20世紀の異才モダーン舞踊家であった。形式にとらわれぬ自由なスタイルの舞踊と肢体美の昇華を追求した。奔放な生き方と発言が引用される。有名なのは、イサドラの文豪ジョージ・バナードショーへの求愛で、「貴方の頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたら素晴らしいでしょう」と彼を求めた。皮肉屋のショーは、「私の肉体と貴女の頭脳を持った子供ができたら、たいへんですよ」と返したとか。

1927年、イサドラは、ニースで愛人と噂されたイタリア系フランス人の駆るアミルカーに同乗したが、彼女の好む長いシルクスカーフがむき出しの後輪に絡まり、車外に放り出された。病院に運ばれたが、死亡する。

Octane Japan 編集部

最終更新:2/28(木) 22:21
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