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凡ミスをするAI 新しい「種」とどう付き合うか?

3/9(土) 9:00配信

THE PAGE

会話ロボットとしてのAI

 そう考えれば、AIに期待される大きな機能は人間との会話である。

 現在でもある程度実現しているが、単純な事実に対する質問に答えるか、ごく一般的な対応をすることにとどまって、便利、面白い、という域を出ていない。

 この状況を突破して、人間とAIのコミュニケーションを濃密なものとするためには、AIに個性をもたせる必要があるのではないか。人間同士でも話し相手として魅力的なのは、特定の記憶と性格すなわち個性をもつ人物だ。これにはまったく新しい人格をつくる方法と、ある特定の個人がその記憶と性格をAIにうえつけ、第二の個人をつくる方法とがある。たとえば死を予期した個人が、できる限りその記憶と性格をAIに移植し、死後に配偶者がそのAIと会話しながら生活するというようなことも考えられる。おそらくその配偶者はAIに生前の人物に近い人格を感じるに違いない。そこに浮かび上がるのがAIの人権という問題だ。

AIと感情と人権

 最後のテーマは、果たしてAIは感情をもちうるか、そこに人権は認められるべきか、ということである。

 囲碁のAIでも、対戦していて物足りないのは、勝ったときに喜ばない、負けたときに悔しがらないことなのだ。しかしいずれは感情を表現できるようになるだろう。表現できればつまり、感情は存在する、あるいは少なくとも人間がその存在を感じる、ということだろう。

 手塚治虫の『鉄腕アトム』はそういう、感情をもつ存在であった。手塚はそれをロボットという種の哀しみをともなう宿命として描いた。そしてたびたび人種差別と重ねて描いた。スタンリー・キューブリックの遺志を継いでスティーブン・スピルバーグが映画化した『A.I』に描かれる、母を追い求める少年の感情も同様だ。彼らはおそらく手塚から大きな影響を受けている。この問題を手塚へのオマージュとして意識的に描いたのが浦沢直樹のマンガ『PLUTO』であった。これらの作品は単なる娯楽にとどまらない、人間性に関する本質的な問題を投げかける。

 科学的、工学的には、ロボットやAIに人権はないというべきだろう。しかしそれが本当にアトムのように知性と感情をもつに至った場合はどうだろう。たとえば、人工といえども知性も感情もあるクローン人間には当然人権がある。動物に対する愛護も、それが知性をもつのか、ペットとして人間の伴侶となるのかによって判断される。もっといえばわれわれは、生身の人間の権利にもそういった区別を行っていないだろうか。司法は、犯行者が自己の罪を意識し反省し悔い改めようとしているのか、あるいは血も涙もない冷血な人間かで刑罰の重さを変える。ある人種はこれまでの歴史において、他の人種を「野蛮」として、搾取、酷使、虐殺、差別といった行為の言い訳にしてきた。

 こう考えてくると、AIが提起する問題はすべて、人間がすでに経験してきた問題であることに気づく。いわば人間は自らの歴史の影に怯えているのだ。しかしそれはAIが大した問題ではないというのではない。むしろ逆だ。AIが提起するのは、人間性の本質としての脳の外在化が抱える根源的な問題であり、それがいよいよ大きく、危険をはらみながら顕在化するということである。

 人間は脳の外在化を進める動物である。馬が走るように、鳥が飛ぶように、脳の外在化を進める動物である。不可逆的に、加速度的に、大きな危険を感じながらも、脳の外在化を進める動物である。

 AIとは人類の宿命(前世から与えられた命)である。

 われわれはこの宿命を飲み込むほかはない。

 とはいえ当面、腹が裂けないような工夫はしておいたほうがいいだろう。

 文明とはすべて危険なものである。そこに生じる悲劇を先延ばしする以外の道はない。

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最終更新:3/9(土) 9:00
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