ここから本文です

コリン・チャプマンを良く知る人物にインタビュー│DFVレースエンジンの背景も

3/13(水) 19:54配信

octane.jp

レースシーンにおいて偉大な影響力を持ったコスワース。その経営者の一人であるマイク・コスティンがDFVレースエンジンの背景にあるストーリーと、かの有名なコリン・チャプマンとの仲について語る。

他の写真も見る

その昔、未来は明るい話題に溢れていた。コスワース (Cosworth)の創業者の一人であるマイク・コスティン。コスワースの「コス」側の人物である。彼にインタビューしてみると、彼が実に陽気で、そして話好きなタイプだということがわかった。数十年前のできごとを少しずつ思い出しては、様々なエピソードを加えて話してくれる。

まずは、コリン・チャプマンのパイロットとしての才能について語ってくれた。

「とても有能だが、燃料に関しては限界まで追い込む男だったね。」そう言うとすぐに目を天井に向けて、今度はDFXチャンプカーエンジンを2台装備したスピードボートに思いを馳せる。「ナイトラス・オキサイドを使ったら、すんなりと水から上がることができたよ…」

こんな調子で、どの話も大きな声で笑いながら、話の結末がよくわからないまま終わってしまう。コスティン氏の前では、誰しも笑顔にならずにはいられないだろう。

彼自身についても気取らず率直に話をしてくれる。コスワースは、モータースポーツの伝説を語るうえでとても重要だ。F1マニアなら、すぐにこのエンジンが搭載されたマシンのデビュー戦、つまり1967年オランダGPで優勝したジム・クラークの姿が目に浮かぶはずだ。このデビューウィンを果たしたエンジンを含め、1983年までにDFVシリーズのパワーユニットはGPレースで154勝をあげた。ラリーファンなら、森のステージを飛ぶように駆け抜けるBDA搭載のフォード・エスコートを思い出すだろう。あの平たい車体が発するバンバンバンとはじけるような独特のサウンドは強烈なインパクトだった。フレーム・スピッティングツーリングカーの生産、インディでの圧勝、ル・マンでの栄光など、ノースハンプシャーの有能なエンジンビルダーにとって、不可能は何もなかった。自慢話にしてもおかしくないこの輝かしい功績を、コスティンはすべて共に働いてきた仲間たちのお蔭だという。

「私がこの世界に入ったきっかけを話そう。私はモーターレースにそれほど興味があったわけではない。どちらかというと私の兄、フランク(航空力学者)のように飛ぶことのほうに興味があったのだが、サーキットで車を走らせてみたいという想いもあった。

1950年代初期、モータースポーツを始める道はふたつだけだった。ひとつは車を買うこと、もうひとつは自分で作ること、そのどちらかしかない。当時、私のような人間が手に入れることができるのはオースティン・セブンだけでね。でも、ちょうど750モータークラブなどが手ごろなキットカーでのレースを推進していたので、私の情熱はエンジニアリングの方向にどんどん傾いていった。」

「私はこのクラブを通して、チャプマンを知った。『知った』と言ったのは、1953年にロータスで働くようになるまでに彼に会ったことは、1度か2度しなかったからだよ。コリンはまだブリティッシュ・アルミニウムで働いていて、私はデ・ハビランドの設計オフィスにいた。コリンは共同出資者として共に働いていたマイケルやナイジェル・アレンと仲たがいし、MK-6のオーダーを完成させるための助人が必要だった。そして私たちは1955年 1月、共にフルタイムで働くことにしたのさ。」

コスティンのこの方向転換は、予想通り彼の兄を困惑させた。「フランクと私は正反対な性格なのだよ。私は真面目で現実的だった。だけどフランクは根っからの航空機ファンでね。つまり彼は『地に足がつく』ことは決して好まなかった(笑)。とにかく、フランクは"僕たちは航空機に関わる人間だろう"、と言って、私が車なんかにかまけることを理解しようとはしなかった。だからコリンが空気力学の原理を応用した車を作ろうとしていた時、逆に私は兄を巻き込んでしまった。」

「1954年のことだった。コリンが作ったMK-8の試作品を見たとき、私は正直なところ良いとは思えなかった。そこで私は、その頃チェスターのデ・ハビランドで空力飛行試験の担当をしていたフランクのところへ行き、彼の意見を聞いてみたのだが、結局それがきっかけでフランクはボディワークにたずさわることになったわけだ。コリンとはそれ以降も様々な車づくりで関わることになった。コリンは抜群に性格が良かったんだけどね、でもビジネスセンスは皆無。それは私も同じ(笑)。だからキース・ダックワースというパートナーの登場となったわけさ。」

ダックワースとは、コスワースの「ワース」側の人物である。コスティンはキース・ダックワースの類まれな才能を初めから見抜いていた。「1957年、コリンがキースを雇い入れ、私は彼の上司になった。彼はカレッジを卒業したばかりで、確かに賢かったよ。彼が作るものは、はじめから正確に機能した。それはエンジニアリングの世界において有り得ないことなんだ。ほとんどの製造業者が廃棄率10%を許容範囲としていた時代に、ロータスの廃棄率は約2%まで下がり、それが利益の源泉になった。また、コリンはどんな問題にも迅速な対応を求める厳しさがあった。私は解決のためにとりあえず手を動かすタイプだったが、キースは違った。彼はコリンが何と言おうと自分でじっくり考えて仮説が立ててからしか行動しなかった。いつしか私は"一緒に仕事するならば彼だ" という確信をもつようになった。彼と力を合わせることは、ごく自然の流れだったわけさ。」

こうして2人は1958年、コスワース・エンジニアリングを設立し、初めはケンジントンの借地で営業を始めた。彼らはそこから数々の成功を遂げ、進化をし続けた。DFVエンジンは、1970年代GPレースをほぼ独占したと言っていいほど、売れた。

「1966年にジャック・ブラバムが突然ホンダのエンジンを使用した。これには驚いた。そして実際にうちがF1に関わるようになった決め手は、コベントリー・クライマックスのF1からの撤退だった。」

「コリンはエンジンサプライヤーを探していた。そしてEssoが資金提供を検討しているさなか、フォードのウォルター・ヘイズがコスワースに投資を決めたわけだ。あれはウォルターの大きな手柄になったんじゃないかな。投資しただけの見返りは十分にあったはずだしね。」

「ただ面白いのは、人々がコスワースという名前で思い浮かべるのはフォードばかりだということ。実際には、我々はジェネラル・モーターズのプロジェクトを手掛けたことが多かったほどだよ。違いは、GMのプロジェクトが機密事項で守られていたのに対し、フォードのマネジメントは常に私たちの仕事を口外することに『寛大』で、何かを秘密にしておくことはほぼ不可能だったということだ。新しいプロジェクトを始めると、半分も進まぬうちに他にニュースが流れてしまうのだからな。」

そう言いながらも彼は、この上ない名声をもたらしてくれた素晴らしいエンジンと、それを育んでくれたフォードについて、静かに誇りにもち続けている。

「DFVエンジンはフォードにとって、 10年以上もの長きに渡って効果的な広告となったはずだ。」コスティンはそう微笑む。「私たちはこのエンジンで1975年、1980年の2回、ル・マンでの優勝を勝ち取った。さらに派生モデルであるDFXは、インディ500で連続10勝を挙げることができた。」

「ジミーが1967年のザントフォルトでDFVのデビューウィンを飾ったことこそが、コスワースにとって大きな業績だった。そのときのジミーはラッキーだったという逸話があるよね。後になって調べたらギアの歯がひとつ欠けていたことがわかったという話さ。この事実はいろいろな本に書かれているが、大して興味はないね。なぜならロータス49を最初に運転したのは私であり、つまりDFVを初めて体験したのは、実際は私なのだから。」

「オランダでのレース前のテスト。ジミーはその頃高い税金から逃れるために国外にいたから、彼に頼むことはできなかった。チームメイトのグラハム・ヒルに頼めば、1周も走らないうちにあれを直せ、これを直せと御託をならべたトイレットペーパーを
持って帰ってくることは容易に想像できた。だから私が運転することになった。それだけさ。」

コスティンは彼自身のドライビングキャリアに関しては、あまり詳しいことは話さない。

「私がロータスにいた頃、コリンと私はありとあらゆるモデルをテストし、その後クラブイベントやナショナルレースに、ワークスカーでエントリーをするようになった。でも私自身がハンドルを握ったことはそう多くはない。一番楽しかったレースは、工場から出荷されたビル・ブラッドリーのトライアンフ・スピットファイアで走った時のことかな。」
 
コスワースがたった一度だけ、一から全てを作ろうとしたレーシングカーについてたずねると、彼は実に不機嫌そうな顔をしてこう言った。

「1960年代の後半、みんなが熱狂しはじめたのが4輪駆動(AWD)だった。ロータス、マトラ、その他すべてのメーカーがAWDを作ろうとしているけれど、どのメーカーもヘマばかりしている。だから、自分たちがもっとましなマシンを作るべきだというのがキースの主張だ。私たちはマクラーレンのロビン・ハードを雇って、設計を依頼してみた。スプリット式ディファレンシャルはキースによって設計され、それ自体はまったく問題はなかったと思うが、そのマシンのテストも私がステアリングを握ることになった。そりゃもう無茶苦茶なマシンだったよ。間もなくロビンは、マックス・モズレーと共にこのプロジェクトを辞めると言い出したんだ。マーチを
作るために、ってさ。」

これにより1969年、トレバー・テイラーを指名ドライバーとしてのイギリスグランプリへのエントリーは取り消された。「キースは"そんな車は売ってしまえ"と吐き捨てた。トム・ウィートクロフトが、エンジン無しのシャ―シを、確か4000ポンドくらいで買っていったっけ。」

これは黄金時代のささいな勇み足に過ぎない。けれどもコスティンは過去の栄光にいつまでもすがろうとはしないタイプのようだ。

「私たちは、そこそこ、うまくやったと思うよ。」 彼は幾分あっさりとしすぎる感じでこう言った。

「私は1990年7月まで働き続けた。今はゴルフをしたり、飛行機やグライダーを操縦したりと、時間をたっぷり楽しんでいるのさ。」

この愛すべき80歳代は、2005年に他界したダックワースにいつまでも敬意を表し続ける。また同様に惜しみない賛辞をベン・ルードに贈っている。

「ベンはもともとバイク乗りで、素晴らしいエンジニアだった。そして彼とキースは心の底から理解し合っていたようだ。ベンは私たちの成功にとって非常に重要な役割を果たしてくれたんだが、コスワースの社名に彼の名前が入っていないので、忘れられがちなのが申し訳ない。」

最後に、社名について他に案はあったのか、聞いてみた。一瞬、間を置いた後、彼は口を開いた。

「特になかったな。もしコスワースにしていなければ、やはり2人の名前をとって、『ダックティン』になっていたんじゃないか。」

「ただねぇ、コスワースエンジン搭載のシエラとエスコートを『コッシー』と呼んでくれる人が多いのだが、もし『ダッキー』という愛称になっていたら、快く思う人は、あまりいなかったような気がするけどね…。」

Octane Japan 編集部

最終更新:3/13(水) 19:54
octane.jp

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事