ここから本文です

本田圭佑が凱旋ゴールに秘めた思い「東京五輪出場に向けてまだまだ成長できる」

3/13(水) 5:00配信

THE PAGE

 Jクラブと対戦するのは名古屋グランパス時代の2007年12月1日のジェフ千葉戦、ゴールを決めたのは同9月15日の鹿島アントラーズ戦までさかのぼる。ともに21歳のころの記憶だけに、ベテランの域に達した32歳は苦笑いを浮かべるしかなかった。

「(今回は)たまたまクラブ(の一員)として来ているだけで、これまでもずっと日本代表でも(日本国内で)プレーしていたので」

 名古屋からVVVフェンロ(オランダ)へ新天地を求めたのが2008年1月。以来、CSKAモスクワ(ロシア)、ACミラン(イタリア)、パチューカ(メキシコ)、そしてアジアサッカー連盟(AFC)に所属し、すでにACLの出場権を得ていたメルボルンで独自の矜恃を抱きながらプレーしてきた。

「日本へ戻る選択肢は考えたことがない。僕がいなくても、日本には頑張っている選手が大勢いる。みんなが頑張る日本はちょっと窮屈というか、海外の2メートル近い大男たちと喧嘩をしたい、という点に刺激を求める日本人も何人かいないといけない」

 しかも、メルボルンへの移籍を決める直前の昨夏には、東京五輪へオーバーエイジで挑戦すると唐突にぶちあげている。
「タイミングよく東京五輪が来てくれることに個人的には運命というか、目指さないといけない、と勝手に感じている。あと2年、ガッツリと自分を鍛えあげようと思う」

 熱き思いはいまも変わらない。というよりも、東京五輪の開会式までちょうど500日となった節目の日に凱旋し、ゴールまで決めた“もってる男”は、さらに闘志をかき立てられたようだ。

「東京五輪出場に向けて、まだまだ成長できると思っている。この年齢になってもまだ伸ばせる部分というものを見つけて、現状維持ではなくて向上していく本田圭佑を見せていきたい」

 今年に入って右のハムストリングを痛め、約1ヵ月の戦線離脱を余儀なくされた。リハビリを積みながら、20代のころとは確実に変わってきた肉体との会話を繰り返した本田は「アプローチの仕方を変えました」と詳細こそ明かさなかったものの、個人練習のメニューを修正したことを明らかにしている。

「ようやくけがをする前のコンディションに戻ってきた。けがが最大の敵だし、けがなくやれれば絶対に東京五輪に出られると思っている。もちろん出るだけではなくて、本当にメダルを取りに行くプロジェクトのもとで動いているので、ノンストップでいきたい」

 A代表との兼任で五輪代表も率いる森保一監督は、最大3人まで招集できるオーバーエイジの存在をポジティブにとらえているものの、具体的には何も言及していない。開催時で23歳以下となる、年代別代表チームとしての骨格を作り上げる作業が先になるからだ。

 そのうえで対戦国の戦力と比較しながら、オーバーエイジ選手の有無を含めて人選していく。本田の大胆な目標はビッグマウスをほうふつとさせる意味で、貫き通してきた生き様が反映されているような気がしてならない。実際、本田はこんな言葉を口にしたことがある。

「自分が弱い人間だということを知っているから、僕は逃げ道を遮断してきた」

 また何か言っているよ、という冷ややかな視線や心ない批判を、前だけを向き続ける力の源泉としてサッカー人生を歩んできた。3大会連続でワールドカップに出場し、全大会でゴールおよびアシストを決めた実績や経験で、オーバーエイジに名乗りを上げるつもりは毛頭ないと再び不敵に笑う。

「もちろんプレーファーストで。確実に満足のいく形で、ピッチに立てていないと意味がないと思っている。それ以外のところの影響力というのは特段、話す必要はないでしょう」
 試合は後半41分に勝ち越しゴールを奪われて敗れた。2連敗を喫したメルボルンの逆襲を誓いながら、本田は挨拶を終えると広島の最終ラインの一角を担っていた、ひとつ年上の水本裕貴とユニフォームを交換している。
「お互いにリスペクトしている間柄なので」
 本田や香川真司、長友佑都、岡崎慎司らが出場しながら、3戦全敗に終わった2008年の北京オリンピックで、キャプテンを務めたのが実は水本だった。悔しさを共有した盟友とエールを交換しながら、来夏に迫った、自国開催のスポーツ界最大の祭典へかける思いを新たにしていたのかもしれない。
(文責・藤江直人/スポーツライター)

2/2ページ

最終更新:3/13(水) 5:39
THE PAGE

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事