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ポルシェRSRで駆け抜けたシチリア最後の王者が語るポルシェの楽しさ

3/18(月) 18:29配信

octane.jp

ハイス・ヴァン・レネップは、ル・マンで2勝、タルガ・フローリオで1勝を挙げた。彼にとっては、ポルシェRSRで戦ったシチリア島の公道レースに思い入れが強いという。

チリア島とタルガ・フローリオについては話が尽きない。「しばらく前に、あそこへ行って1 周走ったよ。記憶が少しずつよみがえってきた。見覚えのあるコーナーに来ると、何があったかを思い出したりしてね。もちろん、もう200㎞/hで村を走り抜けるわけにはいかない。考えてみればクレイジーだった」

「観客が増えすぎて禁止されたんだ。危険になりすぎた。皆、リスキーなコーナーを選んで立っていた。子どもたちが低い塀に座って、足をこちら側にブラブラさせていることもよくあった。スピンしてその塀にクラッシュする可能性もあるのにね。考えたくもないことだ」

ハイス・ヴァン・レネップは、そんな冒険をくぐり抜けてきたとは思えないほど、地に足の付いた落ち着いた人物だ。そして、74歳とは思えないほど若々しい。1906年に第1回が開催された伝説的なスポーツカーレース、タルガ・フローリオには4回出走した。1971 年には2位フィニッシュし、1973年にはヘルベルト・ミューラーと組み、ポルシェ9 1 1 カレラRSRで優勝。これは、さまざまな意味で歴史的な勝利だった。タルガ・フローリオが世界メーカー選手権に組み入れられていたのはこの年が最後で、以降は国内選手権となり、1977年に死亡事故が起きて完全に幕を閉じた。現在はヒストリックラリーとして続いている。

タルガ・フローリオは曲がりくねる山道が主体で、1周72㎞のコースに700のコーナーがあり、ギアチェンジはおよそ1500回におよんだ。通常10周で争われ、1973年頃はトップの車で1周34分ほどかかった。レースの1週間ほど前から行われたテストや練習走行では、レーシングカーはナンバープレートを付けて一般の車と一緒に走行した。

「プロトタイプクラスでは、いろいろな新装備を付けて1週間にわたって特訓した。車両開発部門があるヴァイザッハで生まれた実験車(Versuchswagen)だ。私がポルシェ初のオートマチックになったスポルトマチックをドライブしたのもそのときだよ。シフトレバーを掴むとクラッチが切れるので、ドライビング中にシフトを支えにすることはできなかった」
 
「ポルシェは楽しかったよ。一番パワフルな車だったし、ボスは私たちに力の限り速く走らせてくれた。ウォールに突っ込まない限りはね」

思い出は次々に溢れ出す。「練習中は1日6周くらい走り、1周のタイムは、レースより5分よけいにかかる程度だった。一般の車に混じって走ったのにだよ。ロバが牽く荷車に、羊の群れや馬車、薪拾いに行ってきたおばあさんもいた。それに、道路の再舗装工事もやっていた。すべてを完璧な状態にしてタルガを迎えられるようにだ。当然、レースが終わったあとにはまたボロボロになっていたが、気にする者はいなかった」

「私は1 週間で30 周ほど走行して、コースの99.5 %は覚えた。他のドライバーは木に目印を付けたりしていたが、私は頭に叩き込んだよ。頭の中でコースを5 、6 個の区間に分けるんだ」 今、ヴァン・レネップは再びタルガ・フローリオに出走した

ポルシェ911カレラRSRのシートに座っている。といっても、優勝した車ではなく、3 位でフィニッシュしたレオ・キニューンネン/クロード・ハルディ組の車だ。現在は優勝車のカラーリングに塗り直されてシュトゥットガルトのポルシェ・ミュージアムに収蔵されている。本物の優勝車は、アメリカ人が購入し、レストアして数年後に売却した。

RSRについてヴァン・レネップはこう話した。「非常にパワフルだった。350bhp の3.0リッター6 気筒エンジンで、重量を減らすために、ボンネットやドアなど、アルミニウムパネルを増やしていた。特製ボックスの扱いにはコツがあった。素早くギアチェンジしてもいいが、ストロークが長いのでほんの一瞬"間が空く"。1 速が位置が遠く、2 、3 、4 速が近く、ストレート用の5 速が遠い。だが、大半は2 、3 、4 速で走ったから問題はないわけだ」

「大きなブレーキディスクのおかげでブレーキもよく利いた。エンジンには特殊なピストンが組み込まれていたから、6500rpmを超えないように注意する必要があった。この車のレヴカウンター自体はレッドラインが8200に刻まれていたけどね。それでもやっぱり良かったよ。リアエンジンだからトラクションが大きく掛かったから、タイトコーナーの多いタルガ・フローリオのサーキットにはもってこいだ。それに、ブレーキングしてもノーズダイブを起こすこともなかった。常に水平だった」
 
「思い切り振り回せる車だった。ドリフトもしやすかったが、私はなるべく抑えて、常に車を支配下に置いておくようにした。ロブ・スローテマルケルは派手にドリフトしていたけれど、自分のアンチスリップ・スクールの宣伝をしていたんだろう。いや、真面目な話、車を支配下に保つことで、私は数えられないほど何度も命を救われた。こぼれたオイルの上を走ったり、突然パンクしたりしても生き残らなきゃならないんだ。670bhp のポルシェ917 の運転も、そうやって覚えるのさ」
 
ポルシェは1960年代末から70年代初めにかけて、タルガのエントリーを大きな917 から小型で機敏な908 へと変えた。そこに立ち会ったのがヴァン・レネップだ。

「私が初めて出走したのは1970年で、908 で戦った。この年はタイヤを1本失ったが、3輪と1個のブレーキディスクで走り続けて4 位になったよ。ワークス・ポルシェのすぐ次だ」

「1971年はアルファロメオで出場した。ティーポ33 で2位だったが、実はお偉方の指示だった。私はイタリア人のアンドレア・デ・アダミッチと組み、もう1台はヘゼマンとシチリア出身のヴァッカレッラのコンビだった。ヴァカレッラは地元の英雄だから、故郷で負けるわけにはいかない。あそこでは、優勝しなければマフィアに処分されてしまうだろ(笑)。だから譲ってやったのさ」

「翌年はヴィック・エルフォードと組んだ。"クイック・ヴィック" は、私が知る中でも最高のオールラウンダーだったよ。この年もアルファで走った。本当に楽な車でね。目を閉じていてもちょっと踏む程度で勝てただろう。ところが、コンロッドボルトが1 本折れて万事休すさ。ヴィックと組むといつもツイていなかった。いや、それは違うな。1967年のムジェロでは911R で3位フィニッシュしたんだった」

こうして1973年を迎えた。「私はRSRでハービーことヘルベルト・ミューラーと組むことになった。私たちはいいチームだったが、純粋に仕事だけの関係で、友人にはならなかった。ドライバーの間に本物の友情は芽生えない。不確かな関係で、誰もがエゴイストだ。ドライビング中に考えるのは自分のことだけ。チームスピリットもあるが、レースが終わればそこまでだ」

「ミューラーは非常に安定したドライバーで、いい走りをしたよ。レースではコンスタントな走りがものをいうんだ。たとえば、私がアルファで出した3 周のラップタイムは、34分11 、34分03 、34分09 だ。カレラでは37 分くらいかかったが、アルファのようなスペースシップと違って、あの車はG T に近かったから。それでも私たちはプロトタイプクラスで戦った」


「あの年、プロトタイプクラスにはアルファが2 台、フェラーリが2台、ポルシェが3台出走した。しかし、フェラーリのイクスはエンジントラブルで壁に突っ込み、アルファのデ・アダミッチはオーバーテイクしようとしてサスペンションを壊した。もう1台のアルファは練習中につぶれていた」

「私が最初の3 周を走り、次の3 周をミューラーが走った。4 周目には私たちがトップに立っていたよ。よく知っているサーキットだったが、車の中はひどい暑さで、50度になることもあった。車の中に飲み水はない。その暑さだから喉はカラカラさ。2時間後、3周して4500回もギアチェンジした頃には、精根尽き果てていた。当時はまだ29 か30 歳だったのにね」

現在もドライビングコーチとして働くヴァン・レネップは、レースを戦う術を忘れていないと話す。「今もできるだろう。私は体を鍛えているし、視力も衰えていない。暗くてもちゃんと見えるよ。ただ、今は早めにブレーキを踏んでしまうだろうね。コーナー手前でのレイトブレーキングは、もう私には無理だ。私は非常に幸運だった。決断するのは自分自身だが、運も味方につける必要があるんだ。今でもスピードは出すけれど、余裕を多めに残すようにしている。急いで前に出たがっている人には素直に譲るよ」

「それも私がグッドウッド・リバイバルに出走しない理由のひとつだ。あそこはつまらないサーキットだと思うが、ヒストリックレースの中では最高のスピードでやっているし、ぶつけ合ってコースから押し出したりするからね。ただ、私は917で走ることは二度とないだろうといっていたのに、何年か前にドライブしたんだ。古い車ほどクレイジーだよ」

ヴァン・レネップは、1973年のタルガにどんな思いを抱いているのだろうか。
「世界選手権としての最後の年だったから、自分が勝ててうれしいよ。なんといっても歴史に残ったんだからね。40年以上続いたル・マンの記録もそうだ( 最長走行距離の記録は2010年まで破られなかった)。最近はセーフティーカー先導で走る場面が多い。いいことではあるけれど、記録が長く残ったのはそのためだ。一番の思い出はル・マンの初優勝だが、

私の心は今もタルガ・フローリオにある。あの素晴らしいサーキットのほうが好きなんだ」「一度、練習中に警官に止められたことがあるよ。言われた通りにボンネットを開けると、その警官は“美しい車だ”とため息をついて、目に涙を浮かべていた。彼はただ、車を一目見たかっただけなんだ」

「そう、モータースポーツに関しては、イタリアが一番素晴らしい。タルガ・フローリオには40万人もの観客が集まった。私たちは200 ㎞/h で村々を駆け抜け、その数センチ先には、黒い服を着た75歳のおばあさんが戸口に立って楽しそうに見ていたなあ」
 
ヴァン・レネップはニヤリと笑い「いや、45 歳だったかもしれないな。見分けがつかなかったよ⋯」と続けた。

Octane Japan 編集部

最終更新:3/18(月) 18:29
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