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無敵を誇った伝説の1台「ランチア・ストラトス」が歩んできた歴史

3/18(月) 19:09配信

octane.jp

1977年モンテカルロ・ラリーでのサンドロ・ムナーリとランチア・ストラトスは真に無敵だった。40年を経た今、私たちは本当の伝説というものを目の当たりにした。

最初に「音」が届いた。機械音というより、まるで獣の咆哮のような音がイタリアののどかな風景の中に響き渡った、そして1977年モンテカルロ・ラリーを制したランチア・ストラトスHFが姿を現した。あれから40年たった今でも、その圧倒的な存在感は少しも失われていない。現代の目から見ても、ウェッジシェイプのボディは未来的だ。フォード・エスコートやヴォクスホール・シェベットであふれた世界に、この太陽系の中でもっとも並外れた自動車が当時どんな衝撃を与えたのか、それを正確に想像するのは難しい。さらに想像しにくいことだが、すでに1977年当時、ストラトスはいわば時代遅れになりつつあった。何しろプロトタイプがトリノショーで発表されたのは1971年のこと。その後1974年から1976年までランチアに世界ラリー選手権3連覇をもたらしていたのである。

ストラトスは速度を落としながら近づいてきた。緑/白/赤のいわゆるアリタリア・カラーに包まれたベルトーネによるスタイリングは実に威風堂々としており、ほとんど傲慢と言ってもいいほどのプライドを主張している。目の前に停まるかと思った瞬間、フェラーリ・ディーノ用V6エンジンの咆哮を上げて、ストラトスは私たちを見下したように走り去った。それはまるで気難しいサラブレッドが撫でようとした手を振り払って走り去るかかのように見えた。リアスポイラーと巨大な丸いテールライト、いかにも70年代風のルーバーが付いたリアウィンドウを呆然と見送っていると、私たちの横に立つサンドロ・ムナーリは微笑んでいることに気づいた。おそらく彼は1977年1月22日から28日の出来事を思い出していたのではないだろうか。その後姿は、フレンチ・アルプスでかつてライバルたちが追いかけ、そして追いつけなかったそのものなのである。

「このストラトスは特別だ」と長身のイタリア人は口を開いた。「オーナーのグイド・アヴァンデーロとは友人なので、今も時々この車に乗る機会はあるが、これは単なる車ではない。素晴らしい記憶を呼び戻す魔法のようなものだ」

1977年モンテカルロ・ラリーのスタートに臨んだ時、ムナーリはすでに3度モンテで勝利を挙げていた。もちろん1972年の初勝利は格別だったはずである。非力な前輪駆動のランチア・フルヴィア1.6クーペHFに乗って、当時無敵を誇った恐ろしく敏捷なリアエンジンのアルピーヌ・ルノーA110を打ち破ったからだけではない。

「その頃フルヴィアはデビューからもう7年経っており、売れ行きは芳しくなかった。そこで1971年の末にフィアットはフルヴィアの生産中止を決め、6500人の従業員はレイオフされることになった」とムナーリは説明した。「ところが私がモンテカルロで優勝したとたんに、ディーラーに人々が詰めかけ、先を争ってフルヴィアを注文した。そのために生産ラインは再び稼働することになり、皆仕事に戻ることができたんだ」

1972年の勝利はムナーリにとっても望外のものだったが、1975、76年と連勝した彼は、もし77年も勝ってハットトリックが実現できたら、それは不滅の記録として残るであろうことを理解していた。かつて“ドラゴン”と呼ばれた現在76歳のイタリア人はさすがにやや老いたようで、息遣いもちょっと苦しそうだったものの、今も身体は引き締まり当時のレーシングスーツもそのまま着ることができるという。さらに40年前の記憶はチュリニ峠の氷のようにくっきりとしていた。

「ストラトスは滑りやすい路面で最高の性能を発揮した。1977年のモンテは雪が降りやまなかったためにまさしく打ってつけだった」とムナーリは語る。「車の仕様はその前年に乗って優勝したものとほとんど変わらなかったが、より良いトラクションとコントロール性を狙って、エンジンの最高出力を落とし、その代わりに低回転でのトルクを増すように改良してあった。さらにギア比も低くした。というのも我々の24バルブエンジンは4500rpm以下では本当のパワーを発揮できなかったし、モンテのコースには長いストレートもそれほどなかったからだ」

ラリーのために開発されたストラトスは、他のもっと洗練されていない車に対して重要な長所を持っていた。必要とあらば迅速に調整できるように考えられていたのだ。前後のボディカウルは取り外し式で、サスペションの調整も、エンジン下に位置する5段ギアボックスのレシオ交換も容易だったのである。サスペンションのラバーブッシュはすべてピロボールに交換されており、ムナーリの「TO N41648」ストラトスは、ベースとなった12バルブ190bhpのロードカーとはまったくの別物となった。競技用の24バルブエンジンは290bhpを発生、ハンドリングはナイフのように鋭く、ごく限られたドライバーだけに許された特別の車だった。ムナーリにとってはまさに完璧だったのである。

「今でも鮮やかに思い出すことができる。スロットルペダルだけで、雪の上でダンスを踊るように滑らかにコントロールすることができた。両手をステアリングに、右足はスロットルペダルに、そして左足はブレーキの上に置くだけ。曲がるためにサイドブレーキを使ったことは一度もない」

ハンドブレーキを使う代わりに、ムナーリはミドエンジンカーの小さな慣性を利用して、果てしなく続く雪のヘアピンを難なくこなせるようにストラトスを仕立てた。

「コーナーが目に入ったら、自分の周りで車が回るようにステアリングを切る。それがつかめていれば速く、安全だ。そうでなければ車次第ということだ」そして多分雪の壁に突っ込むことになる…。

雪の王国を滑りぬけていくムナーリとストラトスの妙技を誰よりも良い席から、少なくとも彼がロードブックを見ていないときは間近で眺めていたのが、現在67歳になるシルヴィオ・マイガである。ムナーリのすぐ隣に座って、勝利への道を案内したコドライバーだ。

「サンドロがダンスと言ったのは、まったくその通り。私もそう感じていた」とマイガはあの当時を振り返った。「ラリー中のどこかでロードブックから目を上げたら、魔法にかかっているようだった。周りは雪で真っ白で、V6エンジンは最高に機嫌良く、サンドロは5速フラットアウトでダンスを踊っていた。彼はそれをまったく苦も無くやっていた。いつも静かに、正確で、状況を読み、何よりも常に驚くほど速かった」

第3ステージ以降、雪に覆われた山岳ステージでムナーリとマイガはフィニッシュまで一度もトップを譲らなかった。4台のワークス・フィアット131アバルトをはじめ、ワルター・ロールやジャン-ピエール・ニコラが乗ったオペル・カデットGTEなど228台のライバルは彼らの轍を辿るしかなかったのである。

もっとも、No.1カーのクルーにまったく何の問題もなかったわけではない。ほとんど勝利を確信したフィニッシュ間近に降りかかった災難を思い出すと、マイガは今も身震いするという。

「ラ・トゥルビーからマドーネ・ドゥ・ゴルビオ峠に向かう登りの道で、ライトがすべて消えたんだ。ラリー最後の夜で、周りに灯りはまったくなかった」

不幸中の幸いというべきか、小悪魔が現れたのはスペシャルステージ中ではなく、ロードセクションだった。コドライバーは自分の目の前にあるヒューズボックスを引っ掻き回し、ドライバーは道の方向を何とか見定めようと並木のてっぺんを見上げて走ったという。

「あれは人生最悪の10分間だった」とはマイガの言葉である。

ストラトスのクルーに幸運なことがもうひとつ、マイク・パークス率いるファスト・レスポンス・サービスチームが駆けつけ、部分的にだが解決することができたのだ。パークスは英国人の元グランプリ・ドライバー(1960年代にフェラーリで活躍)だが、開発エンジニアとしても優秀でストラスの開発に携わっていた。

「チュリニ峠のスタートにギリギリで間に合った。チュリニは言うまでもなく最も重要なラリーの最も重要なステージだ。しかし、その時点で我々の車のライトは6個のうちの2個しか点いていなかった」

完璧主義で知られるムナーリは、マシンに対してもメカニックに対しても要求が高かった。だが状況はまるで理想的ではなかった。

「もちろんあの時のことはよく覚えている。故障したライトのせいで、コース脇の雪壁を正確にとらえることができなかった。しかし、トレーニングやテストが物をいうのはまさにそんな時だ。走るステージはよく知っていたし、どんなコンディションなのかも予想できた。ただベストを尽くし、できる限り速く走り、それが十分に速いことを祈るだけだった」

そして彼は十分に速かった。「勝つ可能性があった有力マシンは25台から30台はいたと思うが、我々はどの車よりも速かった」とマイガは誇らしげに語った。「ゴール後、モナコの王宮でレーニエ大公と美しいグレース妃からトロフィーを授与されたが、残念なのはその時はそれがどれほど大きな勝利だったかを正確に理解していなかったということだ。いつもと同じような、一所懸命に働く日の延長だと思っていたんだ」

私たちにとっては、いつもと同じような仕事の日ではまるでなかった。時にずうずうしく、どんな所にも入り込むモータリング・ジャーナリストにとっても、モンテカルロを制したランチア・ストラトスそのものと、優勝クルーとともに過ごすのは特別なことである。しかも、これからその車に乗り込もうというのだ。

その前にもう一度ストラトスの周囲を巡って、美しいラインをじっくり眺めた。現在のオーナーであるグイド・アヴァンデーロが1970年代初頭、ストラトスを初めて見た時はどう思ったのだろうか?

「憎い敵だったよ」と彼は言った。何だって?「大嫌いだったよ」とアヴァンデーロはいたずらっぽく繰り返した。「なぜならストラトスの登場は、私のドライバーとしてのキャリアの終わりを意味していたからだ。それ以前ならば、フルヴィアを買って、サンドロを相手にラリーで競うこともできた。もちろん、実際にはサンドロを負かすことはできなかったが、少なくとも同じような車で戦うことはできた。だがストラトスはラリーの世界を根底からひっくり返してしまった。ラリーのすべてを永遠に変えてしまったんだ」

モンテ・ウィナーのストラトスをアヴァンデーロが手に入れたのは1990年代はじめのことだった。それ以前の所有者は伝説的なエンジニアのクラウディオ・マリオーリ、彼は1984年にファクトリーチームから購入したという。ちょっと昔の話に戻ると、「TO N41648」が最後に世界選手権ラリーに出場したのは1979年のロンバードRACラリーである。黒と白のランチア・イングランド・カラーに塗られたストラトスは、マルク・アレン/イルッカ・キヴィマキ組が乗って5位に入賞している。その前年には、黒/赤/白のピレリ・カラーをまとってモンテカルロ・ラリーに再挑戦している。ルール変更によってその年は12バルブエンジンを搭載していたにもかかわらず、フルヴィオ・バケッリとアルナルド・ベルナッキーニが10位に滑り込んでいる。現在は1977年当時のオリジナルのアリタリア・カラーに戻され、エンジンも24バルブヘッドを搭載している。

ラリー界の有名人たちは多分スマートに乗り込んだのだろうが、慣れていない人間にとってストラトスの狭いコクピットに潜り込むのは簡単ではない。ロールケージがないにもかかわらず(実際にはモノコックと一体化されボディワークに隠れている)、ぎこちなく手足を折り曲げなければならない。コドライバーズシートに収まってみて初めて、ドライバーとの間隔がいかに狭いかが実感できる。サンドロが教えてくれたことを思い出す。「ストラトスは非常に身体にはきつい車だった。冬のラリーでも車内は大変な暑さで、55℃とか60℃ぐらいにはなっていたと思う」当時のラリーの長い距離を考えると、大の男ふたりにとっては大変窮屈で汗臭い仕事場だったはずである。

そんな妄想は、耳のすぐ後ろで爆発したV6エンジンの轟音で吹き飛んだ。コクピットの中は強烈なサウンドで満たされたが、しかしながらアヴァンデーロはいきなり猛然とダッシュするのではなく、代わりにゆっくりと、3速1000rpmぐらいでストラトスを走らせた。ストラトスもまったくやすやすとその仕事をこなしている。現在のエンジンは明らかに、ムナーリ時代よりももう少し扱いやすくなっているようだ。

「これはマリオーリのエンジンなんだ」と彼は誇らしげに説明した。ムナーリがストラトスの能力を最大限に引き出すドライバーとして称賛されるならば、クラウディオ・マリオーリは、他の誰よりもストラトスを知り尽くしたエンジニアとして称えられなければならない。この車の前オーナーであるマリオーリは元々ランチアのレーシングドライバーとして知られ、その後エンジニアに転身した男である。マリオーリはランチアのワークスチームが手を引いた後もストラトスを見放すことはなかった。ベルナール・ダルニッシュがあのシャルドネ・ブルーのストラトスで1979年のモンテカルロを制した時、それを支えたのはフランスのインポーターとともに働いたマリオーリである。ダルニッシュの戦いぶりは素晴らしかったが、記録によればそれはわずか6秒差の薄氷の勝利だった。観客がビョルン・ワルデガルドのフォード・エスコートの前に石を置かなければどうなっていたか分からない。

マリオーリの工場は北イタリアのピエモンテ州のビエラにあり、アヴァンデーロの家のすぐ近くにあった。

「私はラッキーだった」と彼は言う。「今でも、当時ストラトスを手掛けていたメカニックが何人か残っている。彼らは何をどうすべきかを知っているんだ」そう言いながら彼はノンシンクロのギアボックスをシフトダウンして、一気に加速して見せた。メカニックたちが40年前の冬の夜にストラトスを走らせた当時の腕を失っていないことは間違いないようだ。V6エンジンがレブリミット目がけて唸りを上げると、ストラトスは再びその不遜なまでのプライドを発散し始めた。ただラリーに勝つためだけにこの惑星に派遣されたことを自ら知っているかのようだった。この車を、とりわけ雪のモンテカルロで自由自在に操ることができれば、自分は無敵だと確信できただろう。それこそおそらくサンドロ・ムナーリが考えたことではないだろうか。「ポルシェだろうとフォードだろうと、オペルそしてフィアットがどんな車で立ち憚ろうと、すべて打ち破ってみせる。ラリーの勝利は私のものだ」事実、それは何度も証明されたのである。

ストラトスを呑み込んだキャリアカーのドアが閉まるまで、私たちは飽きもせずに見守った。天から降ってきたような美しく、異様なマシンは、静かに姿を消したのである。アヴァンデーロはクローズド・サーキットやヒストリック・イベントなど、年に5回ほどはストラトスを参加させているという。最近参加した最も大きなイベントは2015年のアイフェル・ラリー・フェスティバルで、3日間にわたるイベントではムナーリがステアリングを握った。その際にストラトスは、ワルター・ロール、ハンヌ・ミッコラ、スティグ・ブロンクヴィストそしてティモ・サロネンといった審査委員による“チャンピオンズ・チョイス”賞に選ばれた。多くのファンたちと同じように、ラリー界のスターたちもまた、この特別なストラトスに魅了されているのである。

ドライバーとナビゲーターだけでラリーに勝つことはできない。ここに紹介するのはランチアの栄光を支えた男たちである。

ラリーにおけるランチア・ストラトスの偉業は、無論サンドロ・ムナーリとセルジオ・マイガのふたりだけの功績ではない。チェーザレ・フィオリオ率いる当時のランチア・レーシングチームは、その能力と経験、情熱すべてにおいて最高のチームとみなされていた。その一員だった最高のエンジニアとメカニックが、1977年モンテカルロの興味深い思い出を語ってくれた。

「モンテカルロは最も重要なラリーだった。というのも世界中のメディアが注目していたからだ」と言うのはフィオリオその人である。

「我々はすでにフルヴィアで勝利を挙げていたが、その時は単に幸運と言っていいものだった。続いてストラトスでも勝ったが、監督としてはその1976年のラリーのほうがもっと難しいものだった。ドライバーに順位をキープするように指示したところ、ムナーリの後になることを納得しなかったワルデガルドが従わなかったからだ。彼を諦めさせるために、ドライ・ターマックのステージの前にスタッド付きタイヤを彼の車に装着しなければならなかった…」

「1977年イベントの最大の問題はタイヤだった。800本ものタイヤの中から、変化するコンディションに最適なものを選ぶのは簡単ではない。まるでハリネズミのようなタイヤを履いたストラトスは、雪の上でも80mで止まることができた」

「それに次ぐ重要な仕事は“ファスト・アシスタンス”をどのように走らせるかということだった。山中の上に大雪のため、無線はほとんど通じなかった。そこで我々はイタリア空軍に協力を求め、飛行機を2機飛ばして、無線の中継所として使ったんだ」

ストラトスの生みの親のひとりであるエンジニアのジャンニ・トンティも1977年モンテに派遣されたひとりだ。

「スタートの時の気持ちは今もよく覚えている。大雪のためにギャップからモンテカルロに至る最初の3ステージはキャンセルされたほどだった。私たちは自分たちの車が最高であることを知っていたが、フィアットが131での勝利を切望していることも知っていた。政治的には私たちは難しい立場に立たされていた」

「ピレリを履いたワークスカーが3台、ランチア・フランスのサポートを受けたベルナール・ダルニッシュのもう一台はミシュランを装着していた。ストラトスはスタート直後か頭抜けて速かったが、その後ラファエーレ・ピントが雪壁に突っ込んで6分を失い、ダルニッシュもクラッシュしてしまった。それ以上のアクシデントを避けるために、フィオリオとフィアットチームを率いるダニエーレ・アウデットが話し合って、チームオーダーを出すことになった。131の中で最速だったアンドリュエはその決定に不満だったけどね」

「サービス地点で準備している最中に、目の前の道路の白線も見えないぐらいの濃い霧が立ち込めてきた。ドライバーたちはそんな状況でも晴れた日と同じようなステージタイムで走るんだ」

「私はムナーリのライト・トラブルを修理したサービスエリアの責任者だった。わがチームの最高の電気技師である“シンティラ”とムナーリの到着を待っていた。ほとんどライトがつかない状態でチュリニ峠でのサンドロの様子を聞いて本当に驚いたものだ。我々の技術部門にはたったのふたり、それに対してフィアットは100人以上、それでも私たちが勝った」

メカニックたちの仕事が勝利を左右するのは言うまでもないが、中でも1977年モンテカルロのスターはアントニオ・ジャネッリ、通称“シンティラ”だった。

「私はトンティと一緒にチュリニ直後のペイユのサービス地点で待ち構えていた。サンドロのトラブルについてパークスから聞いていたので、その準備を整えて待っていた。ダッシュボードの下に潜り込んで、焼けたリレーとフューズを交換するのに4分しかかからなかったと思う。それほど難しい作業ではなかったが、逆さまになって窮屈な姿勢で作業しなければならなかった。すべて点灯したライトで走り出す時のムナーリとマイガのホッとした顔は忘れられない」

ジョバンニ・ガリボルディは1963年から1981年までピレリタイヤ担当のエンジニアだった。
「1977年モンテのために我々は新しいBS(Battistrada Separato:スプリットトレッド)タイヤを用意していた。これは軽量化のために小さなスタッドを使用するタイヤだった。ストラトスは基本的にタイヤに負担をかけない車だった、走行後のタイヤを見れば誰が使ったものかすぐに分かる。ムナーリのものは新品のようだったけれど、ピントのは明らかにひどく減っていたからね」

「他にも“5C”という標準より幅の狭い、527本のスタッドが固い雪面に食い込むタイプのウィンタータイヤと、さらにCN36のスペシャルタイヤも用意した。これはスタッドをトレッドに内蔵したものだった。ミックス・ステージは普通ターマック、スノー、ターマックの順に変化する。そこでスタートして山を登る時にはターマックタイヤで、ラバーが減るとスタッドが効果を発揮し始め、下りでタイヤ温度が上がるとピンが抜けて再びターマックタイヤになるというものだった」

仲間からは“ピエロ・ストラトス”と呼ばれる名メカニック、ピエロ・マリオ・スプリアーノは、1976年モンテでムナーリのギアボックスを記録的なタイムで修理した男である。彼は正式なランチアの社員ではなかったが、その経験は他に代えがたいものだった。

「私はビエラのマリオーリの工場でメカニックとしての経験を積んできた。だからストラトスは毎日の食事のようなものだった。トンティが信頼してくれて私たちはワークスチームと一緒に仕事をする機会が多かった。1977年のモンテではダルニッシュのシャルドネ・ストラトスの担当だったが、実際はワークスのメカニックと一緒に区別なく働いた。本番の前にフィアット242バンでローマからすでに2000kmは走っていた。当時をひと言で言うなら“不眠不休”だね」

「私たちは幸運だった。ストラトスは簡潔で信頼性が高く、通常の作業をするだけでよかったからだ。今振り返ってみて惜しいことをしたと思うのはふたつだけ。ひとつはあのイベントで写真を撮らなかったこと。私たちにとっては、あのモンテカルロも、いつもと同じ仕事の日だったのだ。もうひとつは1984年に自分のストラトスを英国で売ってしまったことだ。3500万リラだったから、およそ1万7000ポンドだよ!」

1977年ランチア・ストラトスHF
エンジン形式:エンジン:2418cc、V6、DOHC、クーゲルフィッシャー燃料噴射
最高出力:270.290bhp/8500rpm
最大トルク:255Nm(188lb-ft)/6500rpm
トランスミッション:5段MT後輪駆動 ステアリング:ラック&ピニオン
サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、
テレスコピックダンパー
サスペンション(後):マクファーソンストラット/ロワーウィッシュボーン、
ラジアスアーム
ブレーキ:ディスク 車両重量:960kg
性能:最高速度130mph(209km/h)/0-60mph加速4.8秒

Octane Japan 編集部

最終更新:3/18(月) 19:09
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