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日本に「若冲的なるもの」は、いかなる経緯で出現したのか―辻 惟雄『十八世紀京都画壇 蕭白、若冲、応挙たちの世界』磯田 道史による書評

3/18(月) 7:00配信

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◆「奇想の画家」のすごさ 緻密に言語化

いまでこそ伊藤若冲の絵は人気だが、半世紀前はそんなことはなかった。「若冲なんて昔はゲテモノ扱い。ちゃんとした床の間には掛けらんなかったよ。第一、安かった」と、古株の画商に何度も聞かされた。この「ゲテモノ」画家たちをちゃんと評価したのが、本書の著者・辻惟雄(のぶお)氏である。『奇想の系譜』で、若冲たちを「奇想の画家」とし世に紹介した。当時も若冲の図録はあり、コレクターのプライス氏の注目はあったが、「奇想の画家」のすごさを緻密に言語化し、我々に突きつけたのは、辻氏の功績である。辻氏は医師になるため東大の理科二類に入ったものの理系科目が苦手で、美術史に進まれたそうである(『奇想の発見』)。この方針転換がなかったら、きっと若冲たちの再発見も大きく遅れていただろう。

その辻氏が方々に書きためられた文章がまとめられ、『十八世紀京都画壇』と銘打って、今回出版された。本書を読めば、この日本に「若冲的なるもの」は、いかなる経緯で出現したのかが、了解できる。日本史上、いや世界史のうえでも、日本の十八世紀は面白い。今の我々につながるような文明が生じたのが、二百五十~二百年前の江戸後期であると気付いていた識者は、かなりいる。文化人類学者の梅棹忠夫氏も、明治百年のときに、われわれ日本人は明治百年なのではなくて「化政百五十年」だといっていた。

本書の概略をいえば、まず、正統、恒常の反対である「奇想」が江戸社会の内部に発祥するさまが説明される。十七世紀に、日本美術が権力者の武家的なものから財力の町人的なものへと転換する。そのなかで、狩野派に代表されるが、「粉本(ふんぽん)」といってお手本通りに描く規格化・類型化も進むが、その一方で、個性的、創造的な絵画もあらわれてくる。それには海外からの刺激も作用していた。中国から黄檗(おうばく)宗(しゅう)、長崎経由で明清文人画も入ってきた。特に高度な絵画理論「画論」が入ったのが大きかった。通俗的な絵画教本『芥子園画伝』なども普及する。余談だが、数年前、試みにこの教本を大学の授業で使い、学生に水墨画を描かせてみたら、みな一時間ほどで相当な絵を描けるようになって、驚いた。そんなだから「天性の資質で描いた絵は学んで描いた絵に及ばぬ」(狩野安信『画道要訣』)と、狩野派などが絵は学ぶもの、天性の個性を出すものではない、と主張する。

一方、関白・近衛家熙のような当時最高の教養人は「画ハ我ヲ書タルモノ」と言い切った。自分を出すのが絵である、というのだ。この思想上に、まず、服部南郭・祇園南海・柳沢淇園・彭城百川など初期南画家があらわれるという。祇園南海などは反正統である「奇」を闕(か)いてはいけないといい、絵を夢になぞらえ、想(想像力)の働きで真から奇へと自在に展開していける素晴らしさを論じた。

もうここまでくれば、若冲や長沢芦雪や曽我蕭白が登場するのは目前である。京都が諸国からの浪人武家たち、財力豊かな町人たちと、公家などの教養権力者がかなり自由に交流できる場であったことも幸いした。柳沢淇園から海外知識と学問知識を得た池大雅が日本的な文人画を大成。応挙の円山派が、自然の現実的な観察と写生技法の「型」の高度化に成功するなかで、長沢芦雪のような個性化を志向する「型破り」も現れた。芦雪は顕微鏡をのぞいて桃の実を喰(く)う虫のうぶ毛まで描いてみたらしい。皆川淇園が、そのさまを漢詩に詠んでいる。十八世紀の日本は、西洋東洋の知識をすでに集積、自然美を追求する独創的な芸術の域に達しようとしており、若冲の作品はその一断片なのである。

[書き手] 磯田 道史
歴史学者。
1970(昭和45)年岡山市生れ。茨城大学准教授。2002年、慶應義塾大学文学研究科博士課程修了。博士(史学)。日本学術振興会特別研究員、慶應義塾大学非常勤講師などを経て現職。著書に『武士の家計簿』(新潮ドキュメント賞)、『殿様の通信簿』『近世大名家臣団の社会構造』など。

毎日新聞 2019年3月10日掲載

磯田 道史

最終更新:3/18(月) 7:00
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