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北京からパリまで8か国1万2000kmをクラシックカーで巡る過酷なラリーに挑戦

3/19(火) 18:20配信

octane.jp

8カ国、1万2000km超を33日間で走破する壮大なラリーが"北京 - パリ・モーターチャレンジ"だ。「自動車で行くのは、およそ不可能」とはボルゲーゼ公の1907年の名言。世界で最も人里離れた辺境を走り切る苛酷なラリーにOctane編集部が密着した。

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19世紀後半に誕生したガソリンエンジン車は、20世紀に入ってから急速に発達し、普及していった。自動車の発展に大きく寄与したものにレースや冒険旅行があった。自動車という新しいツールを手にした冒険家は、これを駆って世界への旅に出た。

1907年には、北京からパリを目指して5台の車がスタートした。ルートは自由。優勝賞品はマム・コルドン ルージュのシャンパンが1本という、紳士のチャレンジであった。参加車はイターラ(イタリア)、スパイカー(オランダ)、小さな単気筒3輪車のコンタル(フランス)、2台のド・ディオン・ブートン(フランス)であった。62日後、パリ凱旋門には、全車リタイアではという大方の予想に反して、イタリアの名門ボルゲーゼ家のシェピオーネ侯爵がドライブする4気筒7433ccのイターラがゴールし、5台中4台が完走という結果を残した。その壮大なラリーエイドが90年後の1997年にヒストリックカーイベントとして復活したのだ。

見渡す限りどこまでも広がるモンゴルの荒野に、突如として夜明けが訪れた。太陽は最初、地平線上の赤茶けた紫色の染みとして気配を現し、それがくすんだオレンジ色の球体になって登っていくと、平野が色を変え始める。今朝は気温がぐんぐん上昇し、それと共に、昨日の日没時と同じような強い風が戻ってきた。大きな緑色のテントで、誰かが朝食を知らせる銅鑼を鳴らす。

昨日は、この一晩の休憩所へたどり着くまでに、月面のような岩だらけの荒野や、狭い峡谷を抜け、おそろしく急な山道を登らなければならなかった。その名を“破滅の山”というが、急峻な荒れた坂ゆえにトラクションが不足し、後続車が全力で登ってくるにもかかわらず、後ずさりしてしまうというチームがいくつも現れた。または、路肩に車を停めて、参加車に牽引してもらうチームもあった。

さらに悪いことに、迫り来る夜の寒さを避けようと、牛や山羊の群れが峠から下りて来るのだ。このたった3kmほどの山道で、運命が劇的に変わってしまったチームがいくつかあった。

こうした苛酷なルートがモンゴル南東の中国国境から、北西のロシア国境にある小さなチェックポイントまで10日間にわたって続いた。だが、モンゴルを車で横断する旅は実に印象的な体験であった。1日中走り続けても、人も、動物も、鳥も、昆虫さえもまったく遭遇しない。ここでルートを見つける難しさは、1907年にパリを目指したパイオニアたちが通ったときとほとんど変わっていない。

当時は、地図などなく、方位磁石だけが頼りだった。ここでは貨幣を持っていてもなんの役にも立たない。棒状の銀塊を削り取って、食料と交換した。道らしい道もなかった。あるのは井戸や山羊の囲いへ続く遊牧民の通り道だけだったが、そこにはサッカーボールほどもある岩がごろごろしていた。

現在では、現金も本来の役目を発揮できたし、ルートブックも用意されていたが、井戸や小川でラジエターの水を足す点では、1907年の勝者であるシェピオーネ・ボルゲーゼ侯爵と同じだ。思わず「この道を走った者はいまだかつて誰もいない」とつぶやきたくなる。タイヤに踏みつけられた草の香りが立ちこめるモンゴルでは、臭いまでも地球上のどことも違い、あたかかも、ひとり大西洋を小型ヨットで渡る冒険家のような孤独を感じる。何千マイルも広がる大草原に続くタイヤ痕が、その航跡だ。

前にも後ろにも仲間の姿がない単独走行を続けていると、90数台の仲間はどこへ行ってしまったのかと心配になり、GPSへの信頼が何度も揺らぐ。機器が壊れているのか、あるいは操作を誤っているのではないか、そう疑うのだ。だが構うものかと開き直る。はるか遠くに見えるあの山を左から右へ回り込んで進めば、たとえほかの車が全員右から回り込んできても、結局はまた出会うはずじゃないか、と。

参加車両の距離はすっかり広がり、40km以上も遅れている車もあるが、日没までに集合地点に到着しなければならない。明日のための燃料を積んだタンクローリーを見つける必要がある。そこには炊事車に乗った総勢40人からなるチームが食事を用意し、トイレの穴を掘り、湯を沸かす火を起こしてくれるのだ。熱いシャワーもある。これ以上、気持ちを奮い立たせるものがあるだろうか。

ときおり、赤いシャツを着たタイムキーパーに出会い、タイムカードを提出する。「ほかに誰か来たかい」と聞くと、たいてい、この道を来たのは1、2組だけ、しかも数時間前に通過したという答えが返ってくる。
 
モンゴル中央部は、1907年にボルゲーゼとその仲間が最初のラリーで旅した頃と変わらず、いまだに辺境の地だ。毎日、燃料と食料の供給を受ける必要があるが、それは立ち往生しなければの話だ。実際、一番頻繁に浮かぶ心配は、燃料と食事のことだ。

モンゴルを抜けてロシアに入ると、地元の自動車クラブがタイムトライアルを用意して待っていた。そこは埃っぽいダートコースだった。ロシアの大草原も、人けがない点ではモンゴルと変わらない。ロシアであることを知らされるのは、モンゴルの象徴であったゲルの代わりに、壊れそうな丸太小屋が現れたときだ。ウクライナに入ると、歓声を上げる大観衆に迎えられた。ウクライナの自動車連盟の手配によって通行止めになっている市街地の通りを行くと、何度もフォトグラファーや撮影隊に取り囲まれた。

そこからは、スロヴァキア、オーストリア、スイスと人々の歓迎に迎えられた。封鎖したスイスの山道は油断ならないコースだった。

北京を出発した96チームのうち、フランスへたどり着けなかったのは8組だけだった。パリ中央のヴァンドーム広場に乗り入れ、ついにエンジンを切ったときの安堵感は、とても言葉にできない。旗が振られ、愛する者が出迎える。32日間走り続けてきた大冒険を締めくくるシャンパンの味は格別だった。表彰式のディナーでは、胸躍る冒険と挑戦の物語があちこちで交わされた。かつて、イターラから降り立ったボルゲーゼ公もこう言った。「諸君は正しかった! このルートを自動車で行くのは、およそ不可能である」と。

Octane Japan 編集部

最終更新:3/19(火) 18:20
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