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ミニ使いの達人ドライバーが振り返る刺激的なレース人生│ミニからF1まで

3/19(火) 21:51配信

octane.jp

ミニ使いの達人として知られるツーリングカーの名レーシングドライバー、ジョン・ローズがクーパー・ティームやミニからF1に至るまで、豊かで刺激に満ちた彼のレース人生を振り返る。いつもタイアから激しく〝スモーク"を上げて走り過ぎていく彼を、観客は親しみを込めて〝スモーキン"ジョン・ローズと呼んだ。

「よく信号で自分の反射神経を試したものさ」とツーリングカー・レースの巨人、ジョン・ローズは笑った。「信号が黄色から青に変わるあの一瞬が、タイヤに"火を付ける" には重要な時間だった。ダンロップのレース責任者イアン・ミルズは、ミニのタイヤがもつか、眠れなかったほどさ」 彼の名前が出ると、クーパーSが斜めを向き、ゴムがまるでフランベされるようにフロントタイアから"スモーク" が上がっている映像がすぐに思い浮かぶ。

1960年代の大半、"スモーキン"はイギリスのサルーンカー選手権の常連で、1965年から68年まではクラス・タイトルで4連覇した。 「とにかくレースができて本当に愉しかった」と彼は笑顔を見せる。

「重要なのは、レースで勝てるようになった時にはもう30代だったということ。いわゆる『遅咲き』さ。でも、だからこそ真面目に打ち込めた。私のレースキャリアは1960年代に始まったけれど、それからの10年間がなんと素晴らしい時間だったことか。私はとにかく車の傍にいたかったのさ。祖父はウォルヴァーハンプトンで初めて車を登録した男だったし、父もやはり車が好きで、ランズエンド・トライアルだったかな、そういったレースにも出場していた。そのDNAが私の血の中に流れているのだろう。私は今も銀のタバコ入れを大切に取ってあるが、これは父が獲ってきた沢山ある賞品の1つなんだよ」。

「当時のモータースポーツは、今とはまったく違って、文字通りもっと『身近』だった。まだ子どもの頃の話さ、確か1938年に父に連れられてドニントンで開催されたイギリスGPに行ったのさ。観客席の一番前で観ている私たちとサーキットの舗装路を隔てるものは、たった一本のひもだけだった。遠くで雷のような音が聞こえてきたかと思うと、たちまちタツィオ・ヌヴォラーリのアウトウニオンが現れて、通り過ぎていった。その燃料タンクに何が入っていたのか神のみぞ知るだが、そのガスで私の目からは涙が溢れ、瞬間の迫力が強く記憶に焼き付いた。その時にさ、レースこそが自分のやりたいことだったとわかったんだよ」。

1950年代初め頃まで話を戻そう。当時ジョン・ローズはフォードの販売店でメカニックとしての見習い期間を終えたばかり。寄せ集めで作ったお手製のマシンに乗ってヒルクライムやスプリントのレースに取り組んでいた。 「その後、ハグリー&ディストリクト軽量車クラブで、私はジュリアン・スレルフォールと知り合うことになった。まだ若かった彼の気前の良さが、私のレース環境を大きく変えたのさ。ジュリアンは私をシメイで行われたレースに誘ったが、そこで彼は自分のロータス11を壊してしまったんだ」。

帰る途中で彼はこうつぶやいた。「母さんに潰れたロータスを見せるわけにはいかない。エンジンを取り出したら、他は君にやる」。 ラッキーにも私はロータスのシャシーを数年間も使うことができた。さらに彼はRGSアタランタというキットカーも使わせくれた。これも彼がブラックプールの近くで事故を起こして、直せるのならこれでヒルクライムに出てもいいよと言ってくれたから。"ジュリアン様様" さ(笑)」

「アラン・エヴァンズにも感謝すべきだろう。彼は私の親友であり助言者でもあった。事が起こったのは、彼がパブで会計士試験の勉強をしている時だった。医者だったある共通の友人が、アランに元気か?と軽い挨拶をしたら、アランはいらいらしながら『消えろ』と言ったのさ。それを見たキャメロン先生が、彼にストレス発散になる趣味をもたせたらどうかと私に耳打ちしたんだ」。

これこそがジョン・ローズにとって閃きの瞬間だった。
「ちょうどジョン・クーパーのフォーミュラ・ジュニアについて本で読んだばかりだった。すかさず私はアランに“僕たちでそれを買おう”と提案した。彼の父親は工具メーカー、ブリツールの社長だったから裕福だったのさ。組み立てとメンテナンスは私がやるけど運転は交代で楽しもうと提案したら、アランもそれは素晴らしいと答えてくれた。そのとき私にはウォルヴァーハンプトン近くのコズオルに小さな別荘があり、そこには2台分の大きな車庫があった。そこでクーパーを組上げて村中を走り回ったんだ!」。

アランはフロント・エンジンのローラで、数回サーキットを走ったことがあるだけの初心者。1960年、33歳になったローズはそんなアランと組んでレースに挑んだ。
「アランはとにかくレースに出たいと言った。初戦はマロリーパークだったが、30台もの車が自分の周りにいる状態で1コーナーに飛び込んでいくのを、彼は愉しむどころではなかった。肝を冷やした彼は、それ以降二度とレースに出たいと口にしなかった。だが親切にも私にはレースを続けさせてくれので、結果として私は素晴らしいシーズンを過ごすことができた。それから徐々にいろいろな友人が関わるようになって、それがミッドランド・レーシング・パートナーシップ・チームになったのさ」。

「F1にも参戦したリチャード・アトウッドの父親は、ウォルヴァーハンプトンでベントレーとジャガーの代理店をやっていて、そこを僕たちの拠点として使わせてくれた。そこはロンドン郊外にあるサービトンのクーパー・ファクトリーに近い!私はクーパーに入り浸って技術を身に付けたものだ」。 翌1961年、ジョンはとにかくレースに専念した。フェニックスパーク、ダンボイン、カーキスタウンで優勝し、MRP(ミッドランド・レーシング・パートナーシップ)でアイルランド・フォーミュラ・ジュニアのタイトルを勝ち取った。 それから一年後、ローズとあのボブ・ジェラードとの永い関係が始まった。まずはボブのクーパーT59で1962年のシルバーストンのインターナショナル・トロフィーを走る。それと同時にアレクシスやオースパーというレーシングカーでフォーミュラ・ジュニアなどに参戦、勝利を重ねた。

「ERAを駆ってマン島のエンパイア・トロフィーを走るボブを見たことがあった。あれにはシビれたね。だから彼のチームに入ることは本当に光栄だったよ。彼は完全なプロフェッショナルだったから、コースに出ることだけでワクワクしたな。例えそれが時代遅れの車であってもね」。

そして、ローズがF1パイロットになったのは、ジェラード・レーシングのクーパーT60に乗って、だった。それはつかの間ではあったのだが。「私は1965年に彼のクライマックス・エンジンでイギリスGPに出た。だが、私にとって最も印象深いレースは、シチリア島のエンナで開催された地中海グランプリだ。コースは湖の周りに作られていて、マシンが湖に突っ込んだ場合に備え、ダイバーが待機していた。でもオーガナイザーの予想に反して、私はフリー走行中に“森”に突っ込んでしまった。シャシーにひびが入り、サスペンションとフレームは曲がってしまったが、それでも私は決勝レースに出場した。出走賞金をもらえるという理由だけでね」。

ジョンの遠回りなF1経験が、結果として彼をミニ・レースでの主役の座につかせることになる。
「1963年にシルバーストンでボブの車をテストしていた時だった」ジョンは振り返る。 「クーパー・チームもそこにいて、メカニックのジンジャー・デヴリンがワークス・ミニの面倒を見ていた。私はフォーミュラ・ジュニア時代に彼とかなり親しくなっていたので、興味半分でその車の試乗を申し出たんだ。GPフォーミュラから、いきなりちっぽけなフロントディスクの箱型に乗り込んだわけで、それはさすがに驚いた。明らかに速すぎるスピードでブラインドにさしかかったので、私はアクセルをゆるめてアペックスを変えながらオーバーステアにしてみた。それから一気にアクセルを床まで踏み込むと、完璧なドリフト・コントロールでコーナーを抜けられたことに気づく。ジンジャーは私のラップタイムに満足し、次にジョン・クーパーが私に契約を申し出てきたのさ」。

こうしてローズは一人前のプロのドライバーとなり、レースに集中できるようになった。 引退した彼に心残りはないかと尋ねると、「心残り? 私個人としては、ないな。でも息子のティムはミジェット・チャレンジでタイトルも獲ったほどなのに、地元の新聞でさえ取り上げてくれない。今は情報が多過ぎるのかね。私の時代は確かに厳しかったけれど、一生懸命に頑張れば愉しく生きることが出来たから」。

「私は恵まれていたのかな。良い時代にレースをして素晴らしい時間を過ごし、素敵な妻と息子がいる。私は世界一幸運な男だよ」。彼の笑顔に嘘はなかった。

Octane Japan 編集部

最終更新:3/19(火) 21:51
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