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エンツォ・フェラーリが1人の男に贈った特別なフェラーリの物語

3/21(木) 17:12配信

octane.jp

車が好きな真面目なイギリス人がいた。よく働く彼はやがて成功を収め、迎えた妻のためにフェラーリのコンバーチブルをプレゼントした。しかしその男はフェラーリのドラムブレーキに満足せず、ホイールごとジャガーDタイプのディスクブレーキに付け替え、マラネロのエンツォ・フェラーリのもとに向かった。

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目的は改造箇所を見てもらい、他のフェラーリも採用したらどうかと提案することだった。エンツォに対してなんと恐れ多い行動を、と誰もが思うところだが、エンツォはその男を門前払いすることなく、なんと提案を受け入れた。フェラーリはその後大活躍を見せることになるが、この一件がその転換期だったのかもしれない。

これは架空の話ではない。1950年代の終わりに実際に起こった本当の話である。その男とはピーター・コリンズ。有名なレーシングドライバーである。妻ルイーズのために用意したフェラーリとは、シャシーナンバー0655をもつ1957年製の250スパイダーである。

ピーター・ジョン・コリンズは24歳のとき、すなわち1955年暮れにワークスドライバーとしてフェラーリと契約を結んだ。エンツォは端正な出で立ちの英国人を大いに気に入った。その年のタルガ・フローリオで一緒に組んだスターリング・モスがメルセデス300SLRにダメージを負わせたが、引き継いだコリンズが見事勝利に導いたことを高く評価していたのである。エンツォは、コリンズがF1とスポーツカーレース双方で将来ワールドチャンピオンになる素質があると見込んでいたが、予想外だったのはエンツォの家族、とくに息子のディーノに対して親しく接してくれる温かい人柄も、コリンズは兼ね備えていたことだった。

類い希な才能を持つエンジニアだったディーノは病気がちで、ほぼ毎日自宅療養の日々を送っていたが、コリンズとは誕生日がほんの数週間しか違わないこともあって意気投合、コリンズは多くの時間をディーノと過ごし、車のこと、人生のことなどを語り合ったという。エンツォとディーノに慕われた男だが、ディーノは1956年6月に旅立ってしまう。

翌年2月、ピーターはアメリカの女優ルイーズ・ラネット・コルディエと結婚するが、彼らがマラネロにやってきたとき、エンツォは彼らがホテルに滞在するのではなくエンツォが持っているいくつかの家のひとつに住むことを望んだそうだ。

ルイーズ・コリンズはこの頃のことをよく覚えている。「私たちはモンテカルロとこの家の間を何度も行き来したわ。ある日の午後、ピーターが美しいフェラーリに乗って帰ってきたことには正直あまり驚かなかった。だって彼は仕事でたくさんの車に乗るでしょ。でもこのときは違ったわ。これはルイーズの車だよと言うんですもの。私はまたそんなにお金を使って!ととても気になったけれども、これはエンツォからの贈り物だというのよ。その日から250は私たちの生活の一部になったわ」

モデナのナンバープレートMO46146とともに車が彼女の名前で登録されたのは1958年2月28日である。2座席のベルリネッタはとても特別な車で、生産されたのはわずか40台(販売された36台に加えて試作車4台を含む)と、これだけでも稀少なのに、この車は4台のプロトタイプのうちの最初の1台という、スペシャル中のスペシャルである。オープンのロードカーとして要求される条件をすべて満たしたこの250カブリオレは、そもそもショーカーとして製作された。1956年暮れにピニン・ファリーナは250GTのシャシー(シャシーナンバーは0655だ)をベースに自慢のボディを載せ、翌57年3月に開催されるジュネーヴ・モーターショーでお披露目したのである。

賞賛を受けたのはいうまでもない。美しく、気品があり、特にリアフェンダーの上に付いたしずくのような形状のテールランプなどは、キャデラック的ではあるがこれまで見たことのない形だ。フロントに目をやれば、左右のバンパーレットや、グリルの大きさ、形状などはスーパーファストにも一脈通じるようにも感じる。

ボンネットの上に貼られたプランシングホースのエンブレムもまた、標準的な使い方よりも大きい。また、運転席側のドアがスーパーファストに見られるように、ドライバーの肘の動きを妨げないように下側にえぐられた形状になっている点も特徴的だ。室内を250GTクーペと比較すると、計器類がダッシュボード中央に寄せられている点が異なる。また、ウィンドスクリーンを支えるのはほぼ垂直に立った2本の支柱だけである。雨対策などまったくなされていないのだが、ショーカーとして作られたプロトタイプなればこそである。

次にこの車の完璧な登録簿をご紹介しよう。シャシーナンバーは正確にいうと508B 0655/GT、エンジンナンバーは128B 0655GTであり、ボディの塗色"Rosso Cina"すなわちチャイナレッドはMM10847、ベージュ色の革製イ
ンテリアはVM3309とすべてコードナンバーで管理されている。そしてピニン・ファリーナのカンビアーノ本社を出たのは1956年12月28日という出庫記録も残っている。5月までにフェラーリはこの車がフェラーリ純正であることの証明書を作成し、そこにはこの250スパイダーの最初のプロトタイプを"2ドア・ベルリネッタ・スパイダー"の名で販売する許可を、ジェノヴァのクルーズ船販売会社に与えている。登録は5 月14 日、ナンバープレートはGE98180で、販売価格は545万5000リラだったことも記されている。車は1958年1月17日に490万リラでフェラーリに一度買い戻され、その数週間後にルイーズ・コリンズの元に引き渡されたことになっている。

「ひとつ確かなことはね」ルイーズは車を初めて見たときのことをこう語る。
「ピーターが家に持ち帰ったとき、車はソフトトップが付いていて閉じられていたの。真冬だったから当然よね。ボディの色はとても濃い色で、そう、ダークブルーだったのをよく覚えているわ。でもそれはダークグリーンだったんじゃない?ってよく聞かれるんだけれど、いいえ確かにブルーだったわ」

ボディの色というのは光の加減で違って見えるものだが、もしかしたらこのときもそんなふうに見えたのかもしれない。このスタジオ写真ではグリーンに見えるが、外に出すと日陰ではブラックに、直射日光のもとでは確かにブルーなのである。

250GTカブリオレはひとつの決まった形はなく、顔つきも十人十色だが、なかでもこの車は4台のプロトタイプのうちの最初の1台ということもあって、40台の生産車とは異なる部分がいくつもある。もっとも顕著なのはリアバンパーやテールライトの形状だが、ヘッドライトにカバーがかけられているのも、この車ならではの特徴だ。フロントの両端にはバンパーレットと呼ばれる、万が一の衝突時にグリルを保護する部材まで付いている。

ジュネーヴ・ショーに出品したのちにボディは塗り替えられたが、ほかにもフロントフェンダーにライトが2個追加されている。ソフトトップはちょっとしたミステリーだ。比類ないほどの極上に仕立てられたそれは最高レベルの職人の手による設計・製作のものに替えられているのだが、この車に乗るのがエンツォ自身それに息子にとって近しい間柄だったワークスドライバーとその家族だということを考えれば、その仕様にも合点がいく。

最良の状態で乗ってもらいたいというエンツォの思いが込められているのである。ソフトトップにはウィンドスクリーンと隙間なく合うようにクロームの接合部が付き、左右のドアには寒い冬でも冷気をシャットアウトできるよう、サイドスクリーンが小さなクロームの飾り物といっしょに装備されている。ショーカーというものは時間との戦いの中で作るものだから、ソフトトップなどヨーロッパの一般的な使い方を最低限満足させればよいというつくりになるものなのだ。

快適性についてルイーズはこう語っている。 「この車でモデナやモンテカルロをよく走ったわ。私たちはモンテカルロではボートで暮らしていたから、港でボートに向けて車をバックさせるとまわりにいた人たちが目を丸くして見ていたのを思い出すわ。私たちはヨーロッパのどのレースにもこの250で出かけたし、ディナーに行くにもお伴はこの車だったわ。全然こわれなかったし、いつも安心して乗っていられたのはピーターのレーシングメカニックが面倒を見てくれていたからね」

「そうそう、イギリスからモデナまでで旅したとき、飼っていたネコがギアボックスのふくらんだところにずっといるの。暖かくて居心地がいいのね。パリに行ったときなんかはあまりに気持ちがよくて大きな声をあげるので、私たちがネコを虐待していると思われたらどうしようと恐れたくらいよ」

1台しか存在しないフェラーリのプロトタイプは個性豊かなレーシングドライバーのもとでいい時間を過ごしたが、それも長くは続かなかった。1957年と58年、ピーターはチームメイトのマイク・ホーソーンととても気が合い、プライベートタイムもよく一緒に過ごしていた。

ホーソーンはジャガーDタイプのディスクブレーキの熱心な信奉者で、ずっとドラムブレーキを使用するフェラーリよりいかにこちらのほうが優れているかを力説していた。コリンズも同じ考えだった。彼はレースで戦う立場からもディスクブレーキの優位点はわかっていたので、同じものを採用するよう時間をかけてフェラーリを説得した。しかし話だけではうまく行かなかった。

1958年の夏、コリンズは250と共にイギリスで過ごしていた。ハロルド・ハドキンソンに会うためだ。ダンロップに属していたハドキンソンはディスクブレーキの開発に携わっていた。コリンズは自分の250にディスクブレーキを付けられないか、その可能性を打診したのである。ハドキンソンはジャガー・マーク2やXK150に付いているものなら使えそうだとしたが、フェラーリが履いているボラーニ製のワイヤーホイールだとキャリパーのためのスペースが足りないことを指摘した。そこで彼はDタイプからホイールごとフェラーリに移し替え、こうしてディスクブレーキを装備した最初のフェラーリが誕生した。

なにせフェラーリではF1でもそれまでディスクブレーキを使用してこなかった。最初にディスクを使ったのはこの直後、9月に行われたイタリアGPである。だが、コリンズはその果実を味わうことはなかった。イタリアGPの4週前のニュルブルクリンクで命を落としてしまうからである。ルイーズは悲しみを込めて当時を語る。

「あの事故のあと私はすごく怖くなって、何カ月か車をフェラーリに預かってもらったの。アメリカに持っていったのはそれから数カ月くらい後のことよ。そのあと車は手放したわ。なぜって、あの車を欲しいと願う人の生き方と私がこれから歩む人生はまったく違うと思ったからなの」

新しいオーナーはオットー・ジッパーというやはりレーシングドライバーで、カリフォルニアでフェラーリのショールームを所有する人物だ。ジッパーはレーシングドライバーとしてもビジネスマンとしても一流だったが、今日我々がカーケアで評価するのとは違うタイプの人間だ。というのも、彼はウィンドスクリーンのまわりをクロームのストライプで囲んだだけでなく、ボディを黒に塗り替え、挙げ句の果てにインテリアを赤い革で縁取りまでしてしまったからだ。彼は何年か持ち続けたあと1964年に、トニー・カーチスやウォルター・マッソー、それにデビー・レイノルズらが出演した『グッバイ・チャーリー』に車を登場させたりもした。


その後、250は3人のアメリカ人のもとを渡り歩いたあと、1986年にボブ・リーのコレクションに収められることになる。彼はいまでもこの250を所有しており、フェラーリ・クラシケの厳しい改善要求をも満足させる方法でレストアを敢行している。きちんとした認可を受けるにはあとひとつ、改善しなければならない点がある。それはダンロップのホイールとディスクブレーキをワイヤーとドラムの組み合わせとし、オリジナルの状態に戻すということだ。

ただ今日、ブレーキとダンロップ・レーシングホイールに関する論争は小休止の状態にある。なぜならこの250の場合、こうした改造もどういう理由でこうなったかその経緯を思い出せば、それもまた保存する価値のあるものであり、これ以外にもストーリーに満ちた車だからである。


1957 フェラーリ 250GT ピニン・ファリーナ スパイダー
エンジン:2953cc V12 4OHC ウェバー36 DCZ3キャブレター×3基
最高出力:240bhp/7000rpm トランスミッション:4段MT 後輪駆動 ステアリング:ウォーム&ホイール
サスペンション(前):ダブルウィッシュボーン/コイルスプリング、ウダイユ製ダンパー、アンチロールバー
サスペンション(後):固定軸、ツイン・トレーリングアーム、半楕円リーフスプリング、ウダイユ製ダンパー
ブレーキ:ドラム 重量:1296kg 動力性能(最高速度):150mph(約240km/h)

Octane Japan 編集部

最終更新:3/21(木) 17:12
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