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「ミウラショック」ランボルギーニ・ミウラのインスピレーションになった意外な1台とは?

3/21(木) 11:35配信

octane.jp

世界で最もワイルドなスーパーカーメーカー、ランボルギーニの数あるラインナップの中でも、P400ミウラのセンセーショナルな登場によって、ランボルギーニは一躍"スーパースポーツカー・クラブ"の重要なメンバーになった。オクタンUKでも多数執筆するグレン・ウェリントンが解説する。

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ランボルギーニが350GTの生産を開始することで自動車メーカーの仲間入りを果たしてから1年半も経たない1965年11月3日、彼らが一流のエキゾチックカーメーカーの一員に飛躍することが明らかになった。それはトリノショーの初日のことだった。ランボルギーニのブースには、横置きV12エンジンをミドシップに搭載した"P400" のシャシーが展示されていた。そのシャシーはトリノショーにおける最も大きな話題となった。

『Road & Track』誌のトリノ特集は、「コートの襟を立てた何人ものフェラーリ関係者が、それをひと目見るためにブースの周囲を行き来しているのが目撃された」と報じた。そのうちのひとりは、故セルジオ・ピニンファリーナであった。「あのシャシーを見たとき、私は嫉妬した…。フェラーリ氏はミドシップの車はレースには向いているが、アマチュアドライバーには危険過ぎると断言していたんだ」と述べている。

私が1993年に初めてジャン・パオロ・ダラーラにインタビューした頃。当時のランボルギーニに関するすべての書籍や雑誌には、「P400のシャシーはランボルギーニがレースに参加する目的で、ダラーラとその仲間でエンジニアのパオロ・スタンツァーニ、そしてテストドライバーのボブ・ウォーレスにより、業務時間外に秘密裏に製作された」と書かれていた。私がダラーラにミウラのインスピレーションは何かと尋ねた時。彼は静かに「(BMC)ミニだよ」と答え、こう続けた。

「ミウラは、なにか違ったものを創るための練習台だった。元々のアイデアはスチール製シャシーのミドシップにミニのエンジンをそのまま載せ、ドライバーを真ん中に配置した3人乗りの車を創ることだった」

ミウラのコンセプトを固めるにあたって「本当に刺激を与えてくれたのはミニのパワーユニットだった」という。彼はエンジンと駆動系を一体化したコンパクトな横置きエンジン方式の前輪駆動レイアウトに魅力を感じていた。

「それでランボルギーニ氏に"ミニ" に行ってパワーユニットを私たちに売ってくれるように頼んで、若者向けにとってもナイスなミドエンジンの車を何台か造ろうと提案したんだ。『そのアイデアを使ってランボルギーニでなにか造ったらどうだ』と答えたんだ」

次のステップはシャシーのことだった。ダラーラはそのアイデアのヒントとなったのはフォードGT40だったと告白している。

「ある日、新聞を読んでいて、GT40を見たとき、こんな感じにしたらどうだろうかと思った。フォードのシャシーはモノコック構造だったが、私たちには大きなプレスができなかったので、スチールシートを曲げて、それを溶接で繋いで組み立てることにした」

「ランボルギーニ氏は、単なるオーナー社長を遥かに凌ぐ存在だった。彼はメカニズムに興味があり、見た目のよいものを持つことが重要だった。ある時点で、これはトリノショーに出すといい出した」とダラーラは回想する。

シャシーがトリノショーに出展された途端、たくさんのカロッツェリアからボディ製作の提案があり、(フェラーリとの関係が深いピニンファリーナはなかった)。ランボルギーニはトゥーリングとベルトーネにボディのデザインを打診している。

「トゥーリングは1/4スケールの模型を我々に見せ、それはよい車だった。だが、ベルトーネのデザインを見たとき、私たちは瞬時にそれがユニークで、単なる"よい車" ではないと思ったことは、認めざるを得なかった。そして、フェルッチオ・ランボルギーニは、『これで進めてくれ。なにも変えるなよ』と言ったのさ」

それらのレンダリングを描いた人物は、ベルトーネの新しいチーフスタイリストになったマルチェロ・ガンディーニだった。ヌッチオ・ベルトーネが彼を採用した当時、ガンディーニは弱冠27歳だったが、数多くのヒルクライムスペシャルのデザインを手掛けていた。1992年にガンディーニは私に語っている。

「私がミウラの制作を始めたのは1965年の12月でした。幸運だったのは、ディーノ166(1965年10月のパリサロンでピニンファリーナがプロトタイプを公開)のデザインやボディワークをピニンファリーナが変えたことでした。そのプロジェクトを知らなかった私は、リア、エアベント、インテークといったアイデアの多くをミウラに使ったのです。ラインはとてもソフトなものの、野獣のようでした。ミウラが示したのは、新しいラインの創造というよりは、1950、60年代のすべてのGT、スポーツカーの到達点です」とガンディーニは話す。

ジュネーブでボディをまとったミウラのベールが降ろされた時、「せっかちで裕福な人たち、皆が所有したがったよ。人々は、1メートルでも動かされる前に、最初の1台を買おうとしていたんだなあ」とダラーラは笑う。

ランボルギーニの最新モデル、P400ミウラはセンセーショナルなシェイプと先進的なメカニズムを持って市場に舞い降りた。『Car』誌の1967年1月号の記事"Riding the Wild One" では、テストドライバーのボブ・ウォーレスがドライブする明るいオレンジ色のプロトタイプの助手席から、そのパフォーマンステストをレポートした。「トリノ郊外の料金所から出てすぐ、車線から出たトラックのために迅速に速度を落とすまで、ウォーレスはアウトストラーダで簡単に150mphを出した」と。
 
『Car』誌は次のように結論づけた。「この"現代のブガッティ"に対する、我々のインプレッションを総括すると、"ザ・ミウラ"は、飛び抜けて、最もエキサイティングな戦後の生産開発品であると認めたい。この見事な作品がクラシックになることは疑う余地もなく、人類がその楽しみのために作った製造物のなかで、最も魅力的な工業製品のひとつになりそうだ」と。

アメリカの『Road & Track』誌も、1968年5月のロードテストで実際にステアリングを握り、同様に評価した。「"ザ・ミウラ" が世界で最もグラマラスでエキサイティング。一流のスポーツカーであるということのほかに、なにがいえるだろうか。それをドライブすることは、すべてのエンスージアストが試してみるべき、素晴らしき経験のひとつである」と述べている。

Octane Japan 編集部

最終更新:3/21(木) 11:35
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