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英国ジャガーを暗黒時代から立ち直らせた人物から学ぶ「リーダーシップ」

3/22(金) 7:33配信

octane.jp

この人物のリーダーシップなしには、ジャガーはその暗黒の時代を乗りきれはしなかっただろう。Octane UKのマーク・ディクソンが、役員室から工場までの裏話を取材した。

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サー・ジョン・イーガンは、この取材のために私が持ち込んだ1980年型ジャガーXJSのドアハンドルを見つめていた。やがて、「知っているかい?」と微笑んだ。「こいつは初期モノだ。ハンドルグリップ奥の黒い塗装は使っていると爪で擦れて、最後にはみっともないことになる。だから塗装よりずっと頑丈なブラッククローム仕上げに変えさせたんだ」

これこそ、その当時ジャガー社のオーナーであったBL(ブリティッシュ・レイランド)が本気でジャガーブランドの閉鎖を検討していた時期、すなわちジョン・イーガンが会長に就任した1980年4月に、会社が直面していた品質問題の典型だ。このドアハンドルの品質改善には、1台につきちょうど4ペンスのコストが掛かったらしい。

イーガンが着任した当時、ジャガーは深刻な危機的状況にあった。1970年代に英国を苦しませたいわゆる英国病、慢性的なストライキと休業の泥沼にはまり、さらには主力商品のXJ6サルーンは既に発表後12年を経過していた。

「当時、英国の産業は低い生産性と低品質、大幅な納品の遅延により疲弊しており、それはBL、とりわけ1980年に私が着任した時点でBL内での最大損失事業だったジャガーでは顕著だった。しかし、いつまでもそれに甘んじている必要はまったくない事がわかっていたんだ」

イーガンのブラウンズレーン本社での初日は、幸先のよいスタートとはいい難かった。工員達はエントランスにピケをはり、ゲートいっぱいに人垣を作って、賃上げと序列制度改革を謳ってストライキを行っていた。イーガンは回想する。

「その時のジャガーの組合代表は、オリジナルミニの工場だったロングブリッジ・プラントのそれに比べたらはるかにマシだった。ロングブリッジは救いようがなかったね。要求はひとつだけ、"多くの給料、少ない労働"だ。もしウチの従業員全員がああだったなら、私たちは生き残れなかったはずだ。幸いなことにウチの連中は会社と製品に愛情を持っていて、必要とされる品質改善を自分たちだって行いたかったのだ」

イーガンは、着任早々に工場内に従業員の家族を招いてパーティーを開催した。その席で彼はこうスピーチした。「あなた方のご主人を1年間私に貸してほしい。この間は、夕食をいつも家族でとれるとは限らないかもしれないし、週末の買い物や家族でのレジャーもつぶれるかもしれない。しかし1年後、それ以降のご主人の職場は私が保証するし、待遇の向上も約束できるだろう」

果たして1980年に年間1万5000台に過ぎなかった生産台数は、1988年には5万1000台に増加している。サー・ジョン・レオポルド・イーガン(1986年に叙勲)は、1939年11月7日、コヴェントリーで生まれた。父親がルーツグループの販売店を営んでいた彼は、コヴェントリー近郊のごく普通の環境で育った。「17の歳から、私はもっとも忙しい週末に毎週実家の商売を手伝っていた」という。ロンドン大学のインペリアルカレッジで石油工学を修めた後、イーガンは中東のシェル石油で働いた。次に彼はGM のパーツ部門であったACデルコに入社し、ユニパーツ部門の立ち上げと運営に携り、年商7000万ポンドの利益を計上するまでに育てあげた。1971年にBLに参加し、パーツ部門の取締役となった後、マッシーファーガソン社に移り、やはりパーツ部門の取締役に任じていた。

BLに入ってすぐ、ジャガーの創始者であるライオンズ卿を表敬した際、なんと御大に向かって、ジャガー社の最高経営者になっていただきたいと申し入れるという失態を演じてしまった。それを聞いたライオンズはちょっと驚いた様子で、「お若いの、わしは既に最高経営者なのだよ。誰も教えなかったのかね」と返したという。ライオンズ卿とのこの出会い以降、イーガンとライオンズ卿は二人三脚で会社を切り回した。「サー・ウィリアムは私の師だった」とイーガンは断言する。

「我々はいくつもの大きな問題について話し合い、定期的に彼を訪ねて意見をもらったものだ。彼は会社の存続を願い、我々は議論を重ねた。彼はスタイリングスタジオに来た時はいつも杖を脇へ置いた。背筋は伸び、生き生きして見えた。スタイリングについて素晴らしい目を持っている人だった。ひとつ例を挙げよう。ジャガーは曲面ボディの丸目4灯を伝統的に受け継いでいたが、我々は新型XJ40のフロントを角形2灯のフラットなデザインにした。新型には空力特性を向上させる必要があり、これによりBMWに匹敵する燃費を達成することができた。私は、これがデザイン的に正しいアプローチであったかどうか迷っていたのだが、サー・ウィリアムは、それで正しかったと迷うことなく断言した」

イーガンが残念に感じていることのひとつは、XJ40の開発がローンチまでに完了しなかったことである。彼によれば、まず社内の人間達に自社製品に自信を持たせると同時に製品競争力を強化させるため、製品品質、特にパーツの品質改善を行いながらニューモデルを進化させる挑戦を行っていたのが理由だった。外部サプライヤーからの調達部品に関しては、以前はロットの問題で外部発注が難しかったものが生産数の向上で外注できるようになった。逆に生産台数の増加によって、工作機械を導入して内製に切り替えたものなどがあったが、問題は品質だった。たとえば80年代初頭にアドウェスト・エンジニアリング社が供給していたパワーステアリングポンプの故障率は、実に40%以上だった。

「後で知ったことだが、顧客だった王室メンバーのひとりは、予備のパワーステアリング用フルードの缶を常に積んでいたという。冷や汗ものだったよ」と回想する。品質と信頼性の改善が進み、これがジャガーにとっては戦後から常に最重要市場であった北米での販売を押し上げた。会社は危機を脱し、1984年に、時のマーガレット・サッチャー首相が掲げた民営化政策の先鋒となり、その最初の成功例となった。ジャガーはここに、1966年のBMCへの合併以来18年におよぶ民族系メーカーグループの枷から解放された。

イーガンはまた、ジャガーの伝統であったレースへの参戦で企業イメージをとり戻そうと、新らたにTWRのトム・ウォーキンショーと手を結び、ワークスレベルでジャガーをレースサーキットに復活させた。

「ジャッキー・スチュワートが取りもってくれたんだ。トムなら、ひとりで全部揃っているとジャッキーがいったよ。トムは偉大なドライバーにして起業家、そしてファーストクラスのエンジニアだ。我々はそれに乗った。トムはタフな男だったが、考えてみれば私だって同じだったのだ」

イーガンは組合を黙らせる時ばかりではなく、取締役会の一部のメンバーの陰謀に対向する時など、時々は彼のタフネスを示す必要があった。

リーダーシップについてイーガンは、1979年に首相となったマーガレット・サッチャーは一流の経営者でもあったと考えている。「彼女には批判もあったが英国の製造業の救い主でもある。彼女なくしては我々には現在なにも残ってはいないだろう。誰だって、働く意欲のない労働者を相手に努力は続けられない」

しかし彼は、ミセス・サッチャーを聖人とみなしているわけではない。「1990年末で期限が切れることになっていた、1株主が15%以上を所有することを制限して企業を買収から守る"黄金株"を英政府が放出する際、彼女は事前に私に説明しなかった」という。イーガンはGMによる買収を望み、当初はその方向で進んでいたが、土壇場でフォードによる買収が決定し、彼はフォードから派遣された新会長ウィリアム・ヘイドンにバトンを渡し、1990年6月、ジャガーを去った。それをもって、1984年からの、束の間のジャガーの独立も終止符を打った。

カメラマンがポートレート撮影の準備する間、我々が借りてきたXJ-Sのボンネットによりかかっているイーガン氏に、一度は論争を巻き起こしたジャガーのスタイリングについて実際はどう考えているのかを尋ねてみた。彼はちょっと間をおいてから「好きになってきていたさ。特にそれが年間販売1万台を超えたときにね」と答えた。

Octane Japan 編集部

最終更新:3/22(金) 7:33
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