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「二度と学校に来るな」と教師に言われた小6の夏から70年…差別や偏見と闘い続けてきたハンセン病回復者の半生

3/25(月) 8:01配信

AbemaTIMES

 あなたはハンセン病のことをどれだけ知っているだろうか。患者たちが経験したことは、決して過去のものではない。

 22日放送のAbemaTV『AbemaPrime』では、その前向きな生き方が書籍化され、笑いと涙と共に懸命に努力する姿が偏見に苦しむ人に大きな勇気を与えているハンセン病回復者の石山春平さん(83)とともに、ハンセン病の今を考えた。

■政府黙認のもと実施された「断種手術」、死者も出た「重監房室」

 かつて「らい病」と呼ばれていたハンセン病は、らい菌によって末梢神経や皮膚が侵される感染症で、体の一部が変形することもあれば、場合によっては失明、さらには知覚麻痺により怪我に気づかず患部が悪化、手足の切断を余儀なくされたケースもある。今、日本には患者はほぼいないが、かつては“不治の病“と恐れられており、1931年には全患者を隔離する「癩予防法」が制定されると、患者たちは療養所に強制連行され、死ぬまで外に出ることが許されない“終生隔離“の日々を送った。

 国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)では、壮絶な人生を送った患者たちが生きた歴史や差別・偏見との闘いなど、様々な資料を見ることができる。療養所内では患者の逃走を防ぐため、現金は園内通用券に交換させられた。また、土木工事や農作業、火災時の消火活動、治療や看護、さらには患者が亡くなった際の火葬までもが患者たち自身の手で行われていた。

 そんな患者の人権を無視した生活はとどまるところを知らなかった。遺伝病ではないにもかかわらず夫婦となった男女に子どもを作らせないための「断種手術」が政府黙認のもと実施され、患者たちの尊厳を奪っていた。「戦前は法律の定めに基づかずに勝手に行っていた」(木村哲也学芸員)。

 全国の療養所を撮影し続けているMCの石井正則が、栗生楽泉園(群馬県・草津)にあった、脱走など重大な規律違反をした患者が入れられた「重監房室」について尋ねると、石山さんは「“お前、草津(栗生楽泉園)に送るぞ“って言われると反省した人が全国の療養所で結構いたという。それくらい恐れられていた。あそこに行けば、夏はともかく冬は死と背中合わせの生活。聞いた話では冬はマイナス15℃くらいになるのに、煎餅布団1枚。朝、声をかけても返事がないから入ると亡くなっていたと。凍っちゃっているので、遺体を引きずったら布団まで付いてきたと。入っている期間も園長さんのさじ加減。素直に聞けば1週間くらいで出してもらえたっていうけど、反抗して500日以上いた人もいたそうだ」と話した。

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最終更新:3/25(月) 8:01
AbemaTIMES

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