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【世紀をつなぐ提言】64年大会マラソン8位・君原健二<上>競技観戦、サイン集め…平常心失う

4/2(火) 12:03配信

スポーツ報知

 君原は東京五輪と同じコースを走った63年のプレ五輪で2位に入り、円谷幸吉、寺沢徹を含めた代表3人の中では最も表彰台の期待が高まっていた。それでも「とても私はそんな器じゃない」と感じていた。

 中学2年の時に駅伝クラブに誘われ、断りきれずに陸上を始めた。福岡・戸畑中央高(現・ひびき高)ではインターハイで1500メートルに出場も予選落ちなど、目立った選手ではなかった。高校卒業直前まで就職が決まらず、駅伝のメンバーを探していた八幡製鉄(現・日本製鉄)にスカウトされた。

 「周りは一流選手ばかりで、最初は練習についていけなかった。もう1周、もう半周という形で小さな努力を積み重ねて1年くらいで追いつきました」。多くの名ランナーを育てた高橋進コーチの指導もあり、初マラソンの62年朝日国際で3位。その後も好成績を続け、64年の最終選考会でも1位になって代表に決まった。

 だが、本番では自己ベストに3分30秒も及ばない2時間19分49秒で8位に終わった。「慎重に、慎重に走ったつもりでした。しかし後半追い上げようと思っても、体が前に行かなかった。アガっていたと思います」。レース前、バッグの中からシューズを何度も出したり入れたりする姿を関係者は見ていた。

 本番前にはさまざまな競技を観戦した。選手、関係者に配られた東京五輪のデザインの入ったスカーフに、陸上日本代表の選手のサインを集めて回った。「すべきではなかったですね。成績に影響したと思う。テレビ番組で鑑定してもらったら100万円の値がつきましたが…」

 マラソン代表の3人は東京・代々木の選手村から、レース1週間前に神奈川・逗子の保養所に移動したが、都心まで2時間もかかることから君原と寺沢は直前に選手村へ戻った。じっくりと逗子で調整した円谷は銅メダルを獲得した。君原は平常心を失っていたのかもしれない。(編集委員・久浦 真一)=敬称略=

 ◆君原 健二(きみはら・けんじ)1941年3月20日、小倉市(現・北九州市)生まれ。78歳。五輪は68年メキシコ市銀メダル、72年ミュンヘン5位。66年ボストン優勝。66、70年アジア大会連覇。75歳でボストンに出場し4時間53分14秒で完走。これまでフルマラソンは74度出場し、全て完走。

最終更新:4/2(火) 19:49
スポーツ報知

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