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「平成」から「令和」に変わっても、日本人は印鑑を必要とするの? グローバルとローカルのせめぎ合いはどこへ向かうのか

4/3(水) 12:00配信

ハフポスト日本版

印鑑にまつわる、苦々しい思い出。

西暦と元号の照合のほかにも、日本の慣習が肌になじんできたなと思う瞬間がある。

ひとつは印鑑だ。公的書類にいくつも自分の印鑑を押す作業もすっかり板についてきて、スタッフに感心されるほどだ。

実は、年号と同じく、印鑑にも深い思い出がある。アメリカから留学してきて間もない頃、銀行口座を作る際に窓口の担当者とひと悶着あったからだ。

「印鑑がないと口座は開けない」という担当者に、「私はアメリカ人だし、数か月しか滞在しない。帰国の際には口座を閉めるので、何とかサインで受け入れてくれないか」と訴えた。

必死の訴えもむなしく、「できません」の一点張り。

若かった私は相当激昂し、すぐに印鑑を作って「これでいいのか?!」と語気荒く印鑑を担当者に見せつけてやると…。

担当者は微笑みながら言った。

「通帳は、こちらのかわいいワンちゃんの絵柄でよろしいでしょうか?」

本人にも見分けがつかない、偽物のサイン

苦々しい(?)思い出はさておき、私は本気で印鑑の信頼性を危惧している。

なぜならば、技術革新が著しい昨今、3Dプリンタなどを用いればあっという間に模倣できてしまうからである。印影や本人確認など、ほかにもセキュリティチェックが厳しく行われているとはいえ、印鑑の信用のみに頼るのはもはや現実的ではないだろう。

直筆のサイン等、印鑑に変わる存在が浸透することが急がれる。

例えば、アメリカでは小切手(チェック)を切る機会が多い。チェックには本人のサインが必要なのだが、かなり厳しく真偽を確認される。

実際に私の偽のサインが発見され、銀行から連絡が来たたことがあった。

そのサインを確認したけれど、自分の書いたものと見間違えるほどのクオリティだったことは驚きだ。

本人が間違えそうなほどのサインでもしっかりと真偽を判定するセクションが行内にあるのだから頼もしい。日本には同等の技術はすでに存在するだろうから導入は難しいことではないはずである。

それなのに、なぜ印鑑を重んじるのか。

そこには元号と同様、「しきたり」を「文化」と捉える側面もあるのかもしれない。

ビジネスにおいてグローバルスタンダードは重宝する。

しかし、「日本だけ」というものには、また愛着がわいてくるというのも事実である。マーケティングでいう希少性の原理が働いているのかもしれない。グローバルスタンダードとローカル文化の双方の醍醐味を味わえる時、それが元号が変わる今の時期かもしれない。

ライアン・ゴールドスティン

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最終更新:4/3(水) 12:00
ハフポスト日本版

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