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ニッポン半導体の本格復活は新型メモリーの開発ラッシュにあり

4/4(木) 20:20配信

LIMO

 いよいよ平成の時代が終わりを告げ、新天皇即位で「令和」へと元号が変わることになった。1989年は平成元年であり、この時の新元号「平成」を発表したのは後に総理大臣となる小渕恵三官房長官であった。激動の昭和が終わりを告げ、平成は31年間続いたわけであるが、残念ながらニッポン半導体にとってはひたすら後退、いや凋落の時代であったと言わざるを得ない。

 今やニッポンの半導体の世界シェアは7~8%しかなく、その存在感は極めて薄い。もちろんソニーのCMOSイメージセンサー、日亜化学工業のLED、三菱電機のIGBT、さらには東芝のフラッシュメモリー、ルネサスのマイコンなど世界と戦える製品は今も数多い。しかしながら、ルネサスは工場の一時停止を決めるなど一時の勢いを失っている。東芝メモリもNAND価格の急落を受けて、この1~3月期においては310億円の赤字を出すとも言われている。なんとまあニッポン半導体は弱くなったことか、という印象が一般国民の間にも浸透しているのである。

平成の始まりに世界の過半を握っていたニッポン半導体

 平成元年、つまり1989年時点においては、ニッポン半導体は世界シェアの53%を手中に収め、頂点に立っていた。とにかく恐ろしいほど強かった。その時点で4兆円の大台に乗せていたのだ。

 ただ深く分析しなければならないことは、当時のニッポン半導体を支えていたのはメモリーであったということだ。東芝、NEC、日立はこぞって4M (メガ)DRAMの月産100万個体制を90年夏までに構築すると強く言い切っていた。そしてまた「メモリー大国ニッポンは不滅である」とのたまう大手半導体メーカー幹部の言葉を筆者は強く覚えている。

 しかしながら、平成元年から10年ちょっとで日本のメモリー産業は木っ端微塵に叩き潰される。韓国、台湾、さらには中国の台頭もあって、DRAMの量産設備投資に大きく後れをとり、コストという点でも全く外国勢に勝てなくなっていた。東芝も富士通もみな91年ごろにはDRAM分野から撤退するという惨めな有様となってしまったのだ。

 その後、エルピーダメモリをマイクロンに取られることによって、日本のメモリー産業は東芝のNANDフラッシュメモリーを残すのみになってしまった。もっともウエスタンデジタルと東芝の連合軍なら、まだまだトップを行くサムスンと戦うことはできるだろう。東芝の主力生産拠点である四日市工場は、世界のNANDフラッシュメモリーの40%を作っていると言われるほどの水準にあるからだ。

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最終更新:4/4(木) 21:15
LIMO

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