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唯一無二の造形! 艦橋が個性的すぎる戦艦「扶桑」の一部始終 試行錯誤期の超ド級戦艦

4/14(日) 14:04配信

乗りものニュース

そしてあの特徴的すぎる艦橋に

 2度にわたる改修の結果、主砲の最大仰角を25度から43度まで増やして射程が3万mを超えるようになり、射撃指揮装置も一新されます。遠距離の射撃観測、照準、指揮のため、艦橋も増築されて、水面から高さ50m以上(ビルなら12階建て相当)にまで延び、そこに最新の8m測距儀が据え付けられます。また3番砲塔上に水上観測機を発進させるカタパルトを増設したため、前部艦橋の背面下部がくびれたいびつな形となり、これが「扶桑」と同型艦「山城」とを区別するポイントにもなっています。

 主砲の射程は長くなりましたが、精度は良くありませんでした。主砲塔を6基も並べた構造に根本的な問題があり、射撃時の衝撃で生じる船体のゆがみが原因ではないかといわれています。

 水平面の装甲が強化されたことにより、排水量は約3割増加しました。速力不足を改善するため機関も強化されますが、船体のまんなかに配置されていた砲塔が邪魔になってボイラーなどの増設が難しく、充分な強化とはなりませんでした。煙突は1本にまとめられます。テストでは最高速力24.7ノット(約45.7km/h)を絞り出しますが、それでも鈍足戦艦であることには変わりありませんでした。

「戦ってはいけないフネだった」

 1943(昭和18)年6月から1944(昭和19)年2月まで、「扶桑」の艦長を務めた鶴岡信道大佐は戦後、「結果的には、『扶桑』『山城』という戦艦は、本来、太平洋戦争で使ってはならないフネだったわけですね」と回想しています。

 約4年をかけた改修にもかかわらず、欠陥を充分に克服したとは言えない「扶桑」は、太平洋戦争が始まると、「真珠湾攻撃」「ミッドウエー作戦」に参加するものの直接アメリカ軍と交戦することは無く、以後は性能不足と見なされ、ほとんど訓練や輸送支援などの後方任務についていました。実戦に復帰したのは、本格的に戦況が悪化してきた1944(昭和19)年10月18日に発動された「捷一号作戦」からでしたが、もう戦果は望むべくもありません。10月25日の「スリガオ海峡海戦」でアメリカ駆逐艦隊の待伏せを受け、12門の主砲を生かした砲撃戦を交えることなく午前3時頃、アメリカ海軍駆逐艦「メルビン」の1発ないし2発の魚雷が右舷中央部に命中して落伍、午前3時38分から50分のあいだに沈没しました。

「扶桑」の船体は真っぷたつに割れて大爆発を起こしたとの証言もありますが、アメリカ駆逐艦「ハッチンス」の戦闘報告書には、船体はふたつに割れたが爆発したとの記載はありません。「扶桑」の最期については、同じ日に撃沈された同型の「山城」と混同されたり、日米の資料、証言にも差異があったりして、正確なところはわかっていないのです。「扶桑」の生存者は7名から10名だったとされています。

 2017年12月に故ポール・アレン氏の財団が、沈没した「扶桑」を発見したと発表しています。

【了】

月刊PANZER編集部

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最終更新:4/15(月) 17:51
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