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「まともな考え方ではとてもやっていけない」│ミラノが生んだ芸術 ザガートが選ぶトップ10

4/15(月) 7:16配信

octane.jp

イタリアンカロッツェリア、ザガートの歴史はほぼ一世紀に及ぶ。多くのライバルが姿を消していく中で、彼らはどのようにして生き延びてきたのか。そしてアンドレア・ザガートが選ぶ、トップ10モデルとは何か?

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「まともな考え方ではとてもやっていけない」と、アンドレア・ザガートは、イタリアでデザインとコーチビルディング・ビジネスを経営するのに必要な条件を、実に明るく説明してくれた。

「すべてがきちんと秩序立っているドイツや英国のような国ではシンプルに仕事をすればいい。ところがイタリアでは、つまらない問題を解決したり、官僚主義と折り合いをつけたりすることにずっと多くの時間を費やさねばならない。それでも私たちは引っ越しを考えたことはない。ザガートはイタリアに、ミラノに本拠地を置かなければならない。ミラノはヨーロッパのデザインとファッションの首都であり、私たちの故郷なんだ」その言葉通り、1919年の創業以来ずっとザガートはミラノにある。

「ザガートは私の祖父のウーゴが創業したカロッツェリアだ。彼はエットーレ・ブガッティやヴィットリオ・ヤーノなど、今や伝説的なエンジニアやデザイナーと友人で、仕事のクォリティとエレガントなデザインで知られるようになった。その息子、つまり私の父のエリオは、丸みを帯びた形やダブルバブルルーフなど、ザガートの特徴的なスタイルを生み出した。1950年代には自らもレーシングドライバーだった私の父は、いわゆるジェントルマンドライバーのために、ウィークデイは一般道で、そして週末にはレースにも使える車を製作していた」

「1950年代のザガート車は非常に軽量でスマートなボディと、簡潔だがエレガントなインテリアを備えていた。1960年代になると父は会社を単なるカロッツェリアから工業化されたメーカーへと作り変えた。ちょうどランチア・フルヴィア・スポルトを"量産"していた頃だ。問題はライバル同様、私たちは巨大メーカーに翻弄される立場にあったことだ」

「たとえばマーケティング担当者がやって来てこれこれのように車をデザインせよと告げる。またはフィアットの誰かが値段を上げれば売り上げは落ち込み、結局従業員たちの仕事がなくなる。朝、目覚める度に1000人の雇用をどうしたものかと考え、生産機械の投資に頭を悩ませる。そうして多くの由緒あるイタリアのコーチビルダーが1970年代を生き延びることができなかった。私たちにとっても苦難の時代だった」

ザガートはとにかく売り上げになるものなら何でも、それこそトラック・キャブから二輪車用ヘルメットまで手を広げてその苦境を乗り越えた。

「私は3世代目に当たるが、自動車産業は父の頃とはまったく違う。大学を卒業して家業に加わった私はCAD/CAM技術を導入し、自動車以外の輸送機器や農業用機械などにデザインビジネスを拡大しようとした。ちょうどその頃アルファロメオES30 "SZ" を作っていたが、それがザガートにとって最後の量産モデルとなった」

「ザガートはほぼ100年の歴史を持ち、ミニやブガッティ、ACからランボルギーニまであらゆるブランドと仕事をしてきた。その伝統が現在の仕事に役立っていることは間違いない。今ではシャシーにボディをただ載せるというわけにはいかない。大メーカーは彼らのブランドを守ることに神経質だから、密接な協力関係を築かなければならない。ザガートの名を冠した特別なモデルはごく少数に限られ、たとえば6台のみのフェラーリ575GTZのようにたちまちコレクターズモデルとなる」

星の数ほどあるザガートの傑作の中から、あえて個人的なベスト10台を選ぶとしたらどれにする、と訊ねてみた。
「これまでに何百台も作ってきた中から、たった10台に絞れということがそもそも無理な話だ」と言いながらも、現当主のアンドレアがじっくりと考えた末に選んでくれ、その理由を語った。

「くどいようだが、これはまったく個人的な10台で、その中で順位をつけることはできないんだが…」

1929年アルファロメオ6C 1750GSザガート
アルファロメオとザガートの関係はずっと昔まで遡る。これは祖父ウーゴのコーチビルダーとしての評判を確立した重要な車だ。タツィオ・ヌヴォラーリが駆ったザガートボディのグランスポルトは1930年のミッレミリアを制した。レース用でありながらエレガントで非の打ち所がないプロポーションを持つこのアルファは、ザガートの歴史に残る傑作モデルだ。


1952年フィアット8V
レースでの活躍だけでなくビジネスとしても成功した"オット・ヴ" を外すわけにはいかない。第二次大戦の爆撃で壊滅したザガートの再建に大いに貢献したという点でも重要であり、さらに父親がこの車でチャンピオンになったことでも私たちには忘れられない車だ。


1992年ランチア・ハイエナ
私が自分自身で全体を手掛けた最初のプロジェクトがハイエナだ。当時のランチアはラリーの活躍で名高く、そこでデルタ・インテグラーレをベースにしたクーペを作ろうとした。残念ながら色々な理由でランチアというよりフィアットの支援を受けられなくなり、わずか24台を自分たちで生産しただけだったが、コンパクトな4WDのGTというコンセプトは間違っていなかったと思う。それはアウディTTを見れば明らかだ。まったく残念なことにランチアは今や瀕死のブランドになってしまった。


1996年ザガート・ラプター
この車は当時インドネシア資本の傘下にあったランボルギーニのボス、マイク・キンバリーの要請を受けてわずか4カ月で作られた。ディアブロをベースにしていたが、カーボンファイバーボディのおかげでずっと軽かった。これを基にディアブロの次期モデルを生産するはずだったが、この"プロジェクト117" は契約書のサイン目前でご破算になってしまった。ランボルギーニを買収したアウディが、すべて自分たちでやることに決めたからだ。


1959年アルファロメオ・ジュリエッタSZ
この時代のアルファ・ザガートの中から一台を選ぶのは難しい。だがオリジナルの丸いテールのSZがやはり、コーダ・トロンカ・モデルやTZ1/2よりもキュートでセクシーだと思う。ご存知のようにコンパクトカーを形作るのはさらに難しいが、SZのプロポーションは、サイズを問わず、この時代のどの車にも負けていない。しかもアバルトと同じようにスタイルだけでなく、実は室内も想像するよりずっと広い。


1957年フェラーリ250GTザガート
ザガートは様々なフェラーリのボディを作ってきたが、私の意見ではこれがベストだと思う。力強くエレガントで、特徴的なディテールも数多いが、基本形はシンプルだということに注目してほしい。父のエリオとファビオ・ルイジ・ラーピが協力して作り上げた250GTZはすべてのフェラーリの中でも最も美しい傑作だと思う。5台製作された車はそれぞれ異なるディテールを持つが、そのすべてが生き残っているはずだ。


1964年ランチア・フラミニア・スーペルスポルト・ザガート 
フラミニア・スポルトをベースにエルコーレ・スパーダがまったく別のキャラクターを与えたこの車は私のお気に入りの一台だ。よりエアロダイナミックなだけでなく、魅力も増している。1964年のトリノ・ショーに出品された最初の一台はマルチェロ・マストロヤンニが買った。彼はダーク・ブルーの色が気に入らず、ダークブラウンに塗り直してくれと依頼してきたそうだ。実にエレガントで洗練されており、当時としては非常にモダーンだった。


1937年ランチア・アプリリア・スポルト・ザガート
1937年製とは信じられないほど、まったく古臭くない。この車は伝統的なザガートの特徴のすべてを表している。一切の装飾がない流線型のボディは時代に先んじていた。オリジナルは大戦で失われてしまったが、それではあまりに惜しいので完璧に再現した"サンクションⅡ"(リプロダクション)を製作した。


1960年フィアット・アバルト1000
ドイツ人がVWビートルを生み、それを使ってポルシェ356を作ったように、イタリア人はチンクェチェントのシャシーを使ってアバルトを生み出した。非常に巧妙なパッケージングのおかげで、乗員はもっと大きな車に乗っているように感じるはずだ。何よりもエアロダイナミックであり、可愛らしいスタイルのこの車は、1960年にイタリアの工業デザイン界で最も権威ある「コンパッソ・ドーロ」に輝いている。


1957年ACエース・ザガート
これこそ一番のお気に入りと言っていい。何とかして手に入れたいと思っている。ザガート・フェラーリや8Vにちょっと似ているが、独自の個性を持っている。とりわけ低いノーズと断ち落されたテールが気に入っている。これはジェントルマンドライバーのための典型的なワンオフモデルであり、私も2009年のペブルビーチに姿を見せるまで写真でしか見たことがなかった。間近で見ても、それまで思っていた通りの素晴らしさだった。

Octane Japan 編集部

最終更新:4/15(月) 7:16
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