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プリンス自動車のインサイドストーリ― 第3回│プリンスとミケロッティ

4/15(月) 16:50配信

octane.jp

これから二回に分けてお伝えする内容はプリンス自動車とイタリアのカロッツェリアの深いかかわりについて。今回はプリンスとミケロッティの話。

プリンス自動車とイタリアのカロッツェリアに関する調査に本格的に取り組むことにしたのは、一枚の絵がきっかけとなっている。プリンスにゆかりのある方のお宅で見せられたスケッチ。それは、クルマのデザイン画としては異例ともいえる成り立ちをしていた。

まず、一瞥して絵画のようである。すなわち、クルマのデザインを伝えるためのレンダリングには不要な背景が描かれている。さらに違和感を覚えたのが日付、デザイナーの署名のほかに、日付が記載されており、しかも、その日付は1月1日。これは何か特別なものだと直感した。

署名はジョヴァンニ・ミケロッティ。描かれているのはプリンス・スカイラインスポーツ。日本車で初めてイタリアのデザインを纏った、歴史的に意味のあるクルマである。

ミケロッティが描いた青いスカイラインスポーツクーペの絵画的なレンダリングを所蔵していたのは井上家。百貨店の高島屋を定年退職後プリンスに務める、という異例のキャリアを持つ井上猛さんのご遺族を往訪した際に初めて目にした。この時、真先に浮かんだ疑問は、本来、プリンスを吸収した日産自動車が保有すべきレンダリングを、どうして個人が所有しているのだろう、というものだった。美しいレンダリングを前に、その絵画的タッチ、日付、そして個人蔵と、頭の中はすっかり混乱していた。

これらの謎解きは後述するとして、井上猛さんの話から始めよう。

井上さんは元々が高島屋百貨店の家具売り場を任されていた方で、高島屋を退職後、お得意様のひとりとして厚い信頼を得ていた石橋正二郎氏の口添えにより、部長待遇でプリンスに入社、デザインを担当した。

プリンスに在職中の1959年(昭和34年)11月から1961年(昭和36年)7月の2年間、自動車デザインの勉強のためイタリアへ留学している。井上さんは1902年(明治35年)生まれなので、イタリアに渡ったときの年齢は57歳である。(正確には誕生月が12月なので56歳と11ヶ月でイタリアへ発ったことになる)

海外渡航が厳しく制限される中、渡航枠を得るため日本貿易振興機構(JETRO)の試験に合格し、イタリア語を独学で勉強、留学にこぎつけるだけでも並々ならぬバイタリティーを要したことだろう。

この留学は、石橋家に対してせめてもの恩返しがしたいという、明治気質な強い意志に裏打ちされたもの。ご遺族によれば、井上さんは亡くなるまで、毎年石橋家への墓参を欠かさなかったそうである。

井上さんのイタリアにおける2年間の活動は、幸いにも詳細な記録が残っている。その記録から、スカイラインスポーツは井上猛さんの存在なくして誕生しなかった様子がはっきりとうかがえる。

イタリアでデザインされた美しいクルマをつくろう。スカイラインスポーツの根幹をなすこの発想は、中川良一さんによるものである。中川さんは戦時中、若くして航空機用の「栄」エンジンや続く「誉」エンジンの主任技師となった日本を代表する技術者の一人で戦後はプリンスの重役を務めていた。

スカイラインスポーツの種が仕込まれた瞬間を示す面白いエピソードがある。1989年(平成元年)7月8日付日刊自動車新聞に掲載された中川さんの随筆。その随筆には、1955年(昭和30年)に欧州を往訪したときの様子が綴られている。

中川さんは1955年(昭和30年)にジュネーブモーターショーを視察し、イタリアのカロッツェリアによるスポーツカーの美しさに驚く。さらに同じ旅行中、ロケットで有名なスイスのエリコン社を、防衛庁(当時)の嘱託として訪問している。その時の忘れられない経験として次のような話が記されている。

それは中川さんがエリコン社の重役であるガーバー博士と技術懇談を行なっていた時のこと。懇談中のガーバー博士のところに秘書が来て何やら耳元でささやくと、博士は急にそわそわして話が進まなくなってしまった。そこで中川さんがたまりかねて尋ねると、博士は「実は、待ちに待ったクルマが、今、玄関に届いたらしい」と答えた。

そのままでは懇談どころではなさそうなので、では一緒に拝見させてください、と、懇談を中断。そそくさと玄関まで出てみると、そこにはアイボリーホワイトのメルセデスベンツ300SLガルウィングが佇んでいた。

ガーバー博士は中川さんがわざわざ官命で往訪するような立派な大人である。その博士をも虜にするクルマの存在を目の当たりにしたことで、中川さんのなかにある種の変革が起こる。しかも、中川氏は懇談直前に訪れたジュネーブショーで、眩しいばかりのイタリアンカロッツェリアの作品群を脳裏に焼き付けたばかりだった。

結果としてこの経験が中川さんを再び奮い立たせることになる。中川さんは随筆に記している。この時に、美しいイタリアンデザインのスポーツカーをつくることが私の夢になったのだ、と。

ここで少しだけ脱線を許していただけるならば、中川さんの心境はスタジオジブリの映画「風立ちぬ」を観て明瞭になった。「風立ちぬ」は零式艦上戦闘機(零戦)にかかわったもう一人の天才設計者・堀越二郎氏を採りあげた作品である。劇中、「飛行機は戦争の道具ではない、ヒトを運ぶ商いの道具でもない。美しい夢なのだ」といった台詞がでてくる。堀越氏だけでなく中川さんを含む多くの航空機エンジニアも同じような思いをしていたことだろう。

それが敗戦後の政策により、ほとんどのエンジニアは美しい夢を追うことが許されなくなってしまった。みな一様に意気消沈する。中川さんも例外ではなくそのひとりだった。ただし中川さんの場合は防衛庁の顧問としてかろうじて空との関係を維持することができた。ところが、そんな防衛庁の仕事で訪れた先で、クルマもまた美しい夢になりうることを実感する経験をし、以後、その夢の実現に邁進していくのである。

ただし、その夢がスカイラインスポーツとして実現するまでは、そこから5年の歳月が必要となる。

ここで井上猛さんに大命が下る。井上さんのイタリア留学を強くバックアップしたのが中川さんだった。1959年(昭和34年)11月から1961年(昭和36年)7月までの2年弱に及ぶイタリア留学中、中川さんと井上さんとの間に交わされた書簡は200通以上。今日に較べて通信の便の悪い当時にあって、ふたりは実に緊密な連携を保っている。

イタリアに赴く井上さんに託された任務のひとつは、プリンスがイタリアのカロッツェリアにデザインの委託をする場合、どこがふさわしいかを探ること。

プリンスがイタリアにデザインを発注してスポーツカーをつくることを決めたのは1960年(昭和35年)3月の役員会議。そのことはすぐに中川さんからミラノにいた井上さんに伝えられている。役員会議の決定事項を伝える3月18日付の書簡には、ただちにデザイン委託先の選考に入れ、との指示がある。この指示に対し井上さんがミケロッティを推挙するのが3月29日。重要な決定に2週間と要していない。これこそ、井上さんがイタリア到着後から着々とこの日のために準備してきたことの証である。

イタリアに到着した11月から3月まで5ヶ月間の井上さんの歩みをみてみよう。

井上さんは1959年(昭和34年)11月1日の羽田発SAS(スカンジナビア航空)でイタリアへ向けて出発するのだが、この時点では肝心の研修先が決まっていない。とりあえず現地入りしてその場で研修先を探すことにした。日本から研修先にあたりをつけるのは容易ではなく、隔靴掻痒と感じていたのであろう。

1959年(昭和34年)時点で欧州は遠く、井上さんがミラノに到着するのは11月5日のことである。翌11月6日には早速ミラノ工科大学へジオ・ポンティ教授を訪ねている。そう、井上さんはプリンスに転職するまで、長く高島屋の家具部に勤務した方である。今日でも家具や食器に名を残す、ジオ・ポンティ教授を尋ねるのはごく自然の成り行きと思える。

この時ジオ・ポンティ教授から紹介されたのは、ロドルフォ・ボネット氏で、真の研修先が決まるまでしばらくの間、ロドルフォ・ボネット氏のデザイン事務所で研修することになった。

ボネット氏のデザイン事務所で研修する傍ら、井上さんは精力的に自らの受け入れ先を模索し、併行してプリンスの業務委託先の検討も進めている。いわゆるサウンディングである。また、もし研修を受け入れてくれたらプリンスからの業務委託先としても優先的に検討する、といった条件も提示している。JETROの渡航枠で留学している事実にかんがみ、プリンスとしても、なんとか井上さんの研修成果がカタチとして残せるよう配慮しているのである。

井上さんの研修と業務委託を組み合わせた打診に対して、誇り高いイタリアのカロッツェリアはどこも冷やかだった。素人同様の研修生を受け入れ、さらにその研修生とのコラボレーションで何らかの作品をつくることは、プロ意識の高いカロッツェリアにとって考えられないことだったのであろう。

研修+業務委託の打診を行なったことにより、かえってピニンファリーナなど、特に歴史ある誇り高いカロッツェリアとの間には壁をつくってしまったのかもしれない。

ここで重要なのは、中川さんからスポーツカーデザインの業務委託先検討を正式に要請する書簡が届いた3月18日時点で、井上さんはまだ研修先を探している最中だったことである。自分の研修先すら決定していない時点で、速やかに業務委託先を決めている。ふたつの作業を同時並行して行なっていたことの証左である。

尚、3月18日の時点でギアだけは研修受け入れ依頼に対する正式な回答を保留していた。そのギアから研修受け入れ不可との正式回答が舞い込むのは、スカイラインスポーツのデザイン委託先をミケロッティに内定した直後の3月31日のことだった。

デザイン委託先選定に際して、井上さんが最も頼りにしたのが、ジオ・ポンティ教授から紹介されたロドルフォ・ボネット氏だった。

ボネット氏が井上さんからの相談を受けて推薦したのがジョヴァンニ・ミケロッティ。ミケロッティはピニンファリーナなどと較べ小規模な所帯で、それ故、融通や小回りが利く。駆け出しともいえるプリンスとの相性は良いだろう。これがピニンファリーナなどの大御所が相手となると、そうはいかない。費用が高額化するだけでなく、逆にプリンスの方がピニンファリーナに御される事態にもなりかねず、結果としてプリンスにとって荷が重くなる。

そもそも、短時間でスポーツカーを仕上げるならば、ミケロッティしかない、というのがボネット氏の考えだった。ボネット氏の言葉に意を強くした井上さんがミケロッティを推挙する書簡をプリンスに送ったのが、先述の通り3月29日のことである。

ところが、この後もひと悶着ある。肝心のプリンスが難色を示す。早速4月4日付で中川さんから井上さんに、デザインの委託先としてはギア社の方が好適ではないか、との返信が送られてくる。

これを受けて井上さんも再度ギアと折衝するのだが、結局4月30日にギア側から、スポーツカー試作辞退の正式通知が井上さんにもたらされる。ギア社の辞退表明によりプリンスもミケロッティを了承。即日の4月30日、ようやくスポーツカーの試作委託はミケロッティに決したのである。

その後の詰めは速かった。5月9日にはミケロッティと仮契約を行ない、デザイン作業の準備に着手する。当初の日程では10月10日の完成を目指していたスポーツカー、すなわちスカイラインスポーツだったが、一ヶ月弱の空走期間のため、車両の完成予定は大幅に遅れることになる。

以上のような経緯で、プリンス初のスポーツカー、スカイラインスポーツのデザインはミケロッティに託されることになった。尚、ミケロッティに対してもプリンス本社の意向で、井上さんとの共同デザインとすることはできないかとの打診がなされているが、ミケロッティはこの申し入れをきっぱりと断っている。

当初、スカイラインスポーツの台数は1台を予定していた。その1台をその年の10月25日から開催される東京モーターショーに展示しようというのがプリンスの目論見である。ところが、デザイン委託先決定でのごたごたで、とてもその日程は守れそうにない。この混乱に乗じて、井上さんと中川さんは一計を案じる。それは次のようなストーリーだった。

東京モーターショーへの出品に全てを賭けてスカイラインスポーツの製作を進めていくと、万一、完成日程が遅れた場合せっかくのスカイラインスポーツのお披露目の場を失うことになる。安全策として、11月3日から開催されるトリノショーにも出展できるよう手配する。ただし、東京モーターショーの会期は10月25日から11月7日なので、1台で東京とトリノに対応することは不可能。したがって、ここは2台、あらかじめ製作することとしたい。

この案がプリンスの役員会でも了承され、ミケロッティには2台が発注された。当初、ミケロッティに託されたスカイラインスポーツにはコンバーチブルしかなかった。4気筒のグロリアをベースとしているためエンジンが非力で、オープンカーにでもしない限りスポーツカーとは名乗れない、と考えてのことである。コンバーチブルの車体色は日本を表わす白、と最初から決められていた。

そこに急遽2台目の試作が決定する。中川さんもそして当の井上さんも、東京モーターショーへの出展は最初からあきらめていた。その代わりトリノショーに2台展示できるよう準備を進めた。井上さんの提唱で製作されることになった2台目のボディはクーペに決定。車体色は提案者の井上さんに一任される。ここで井上さんが選んだのが青。イタリアといえば赤なのだが、トリノショーに展示されることを前提に赤は遠慮して青を選んでいるあたりにも、深慮遠望の井上さんらしさがにじんでいる。ちなみに後年、晴れて東京モーターショーに出品されたスカイラインスポーツは、
赤く塗られていた。

これで賢明な読者諸兄は冒頭の絵の謎が解明できたことと思う。蛇足を承知で書き連ねるならば、まず、この絵の題材は井上さんの提唱で誕生した青いクーペでなければならない。井上さんが奔走したことで、ミケロッティがスカイラインスポーツを受注し、しかも、もう一台エクストラとしてクーペがつくられたことにちなんでいる。

この絵は、ミケロッティから井上さん個人に贈られたものだった。井上さんがもし、キリスト教圏のひとであったならば、絵に記された日付は1960年12月25日だったことだろう。日本人は元旦に年賀、すなわちプレゼントを交換すると思いこんでいたミケロッティは、迷わずこの絵に1961年1月1日の日付を記入することにしたのである。

Octane Japan 編集部

最終更新:4/15(月) 16:50
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