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生き恥をさらした...パプアで多くの命を救った日本人の壮絶人生

4/15(月) 21:00配信

テレ東プラス

そんな川畑さんは、街に出ればいろいろな人に声をかけられる。この日の夜は、州知事夫妻と会食。パプアの人々から尊敬される川畑さんだが、なぜパプアに来ることになったのか?

時代の荒波に巻き込まれる

1926年(大正15年)、長崎県佐世保に生まれた川畑さん。遠洋航海に行っていた父は、海外でカメラをよく買ってきてくれた。少年時代に父から手ほどきを受け、カメラが好きになったという。

川畑さんが15歳の時、太平洋戦争が開戦。日本は次第に窮地へと追い込まれる。川畑さんは、家族を守るために自ら戦線に出るしかないと、学校を中退して海軍に志願。18歳で海軍予科練に入隊した川畑さんは、人間魚雷“回天“の乗組員として配属された。

人間魚雷とは、爆破のみの魚雷を改造し、ミサイルの中に魚雷を操縦する運転席を作ったもの。命と引き換えに、そのまま敵艦に体当たりするという残酷な兵器だ。

敵艦に命中すれば必ず死が。命中しなかった場合も、脱出装置はなく酸素は4時間しか持たないため、酸欠で苦しみながら死を待つ。それでも当時の川畑さんに迷いはなかったという。

乗組員として集められた100人の若者は、過酷な訓練を終えると次々に戦場へ。そしてついに川畑さんに出撃命令が。だが、出撃6日前の1945年8月15日、日本の降伏により太平洋戦争が終結。

生き残った嬉しさよりも、死んで行った仲間たちに申し訳ない気持ちでいっぱいだったという川畑さん。生き恥をさらすくらいなら、自決しようと考えたこともあったという。

そんな川畑さんを救ったのがカメラだった。亡くなった仲間にカメラで未来を見せてやる、カメラと共に生きていくことを決意したのだ。

特攻訓練で鍛えた度胸を武器に、川畑さんは危険な場所や過酷な現場もお構いなしの、売れっ子報道カメラマンになった。当時若手記者だったTBSの元キャスター・筑紫哲也さんも認める存在だったという。

カメラマンとしてパプアに赴いた川畑さんは、ひょんなことから知り合いに頼まれ、借金まみれのホテルの再建を引き受けることに。カメラマンを辞めパプアに移住して14年後、川畑さんが72歳の時にある悲劇が起きる。

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最終更新:4/15(月) 21:00
テレ東プラス

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