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真っ赤な2台のモンスターが秘めた強さの理由とは?

4/16(火) 17:26配信

octane.jp

オースチン・ヒーレー3000のワークス・ラリーカー、その最初と最後のモデルをドライブした。2台が見せた強さと性格の違いには、ビッグヒーレーが成し遂げたラリーの歴史が秘められている。

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ビッグヒーレーにうってつけの道だ。流れるような高速コーナーが続き、見通しがよい上に交通量が少ない。そこを2台の元ワークスカーが、スポットライトを輝かせ、6気筒エンジンの咆哮を轟かせながら駆け抜ける。私の前を走るポール・ウールマーは、すぐに差を広げていったが、私に合わせて徐々にペースを緩めてくれた。彼がドライブするのは、2台のラリーアイコンのうち古いほうのSMO 744で、ずっと標準型に近い。私がドライブする BMO 93Bは、それより5年あとのモデルで、激しい競争で培われた経験が生かされている。

10マイルの走行を楽しんだあと、車を交換。すると、違いはすぐに明らかになった。元来た道を疾走しながら分かったのは、古いSMOのほうがややソフトで、飛ばしやすいということだ。少なくとも、名手ラウノ・アルトーネンほどの腕を持たない私のような者にとっては…。SU製トリプルキャブレターによるパワーデリバリーは、後期のBMOが搭載するウェバー製に比べると、パンチにこそ欠けるものの、よりユーザーフレンドリーだ。

運転席の横に斜めに突き出すギアレバーは、可動範囲は相当に長いが軽く動く。対照的に、BMOのギアシフトは中央に位置し、重いため力を必要とするが、はるかに明確な反応だ。どちらの車も、チューリップ・ラリー仕様のストレートカット・ギアレシオで、3速と4速は間にオーバードライブを挟まなければならない。つまり、シフトアップは3速、3速オーバードライブ、4速、4速オーバードライブとなる。BMOはオーバードライブボタンがシフトノブに付いているので楽だが、SMOはダッシュボードに付いているため、腕が3本ほしくなるようなときもある。

細かな点にも違いがある。ステアリングは初期型のSMOが細身のウッドリムで軽く握りたくなるのに対して、後期のBMOのものは小径で太く、レザーで覆われている。また、BMOはスイッチ類の間隔が広い。これには合理的な訳がある。個別にヒューズをかませたり交換したりできるほうが好都合だと経験を通して学んだのだ。例えばアルプスの山中でフロントの片側にダメージを負っても、使えなくなるのはそちら側のライトだけで済む。

2台とも見事な出来で、バランスがよく、高速コーナーでも地面をしっかり捉えて離さない。初期型のSMOですら、ハンドリングと挙動で標準のヒーレーを大きく凌ぐ。ウールマーのすぐ後ろを走りながら、リアをぐっと沈み込ませて落ち葉を蹴立てる様子を見ていると、ベルギーやフランスで似たような道を豪快に飛ばしていた50年以上前の姿がまざまざと目に浮かんでくる。

この2台は、SMOが1959年、BMOが1964年と、オースチン・ヒーレー3000のラリーキャリアの最初と最後を飾ったモデルである。また、その間のラリー競技自体の変容も反映している。主にアマチュアのドライバーが比較的標準仕様の車で公道を舞台に争った時代から、プロフェッショナルなドライバーがスペシャルステージで戦う競技へと変わり、車両の特殊性も強まっていった。

今でこそ“3000”は主にラリーでの活躍で有名だが、その初期型は抜群のオールラウンダーだった。先行モデルであるオースチン・ヒーレー100の競技デビューは、1953年のリヨン-シャルボニエール・ラリーで、グレゴー・グラント/ピーター・リース組がステアリングを握った。その年はさらにミッレミリアに2台、ル・マンにも2台が出走。それだけでなく、ボンネビルの塩湖に2台を持ち込んで、速度と距離で新記録を樹立した。

4気筒ヒーレーの最終進化形が1955年の100Sだ。だが、1950年代半ばとはいえ、既にスポーツカーレースはよりレースに特化したマシンの独壇場となりつつあった。さらに1956年後半には6気筒エンジンの100/6が投入される。しかし、そのパフォーマンスは短期的に一歩後退しており、1957年は新モデルでの競技参加が少なかった。とはいえ、トミー・ウィズダムがUOC 741を駆ってセストリエーレ・ラリーに参戦している。また、ミッレミリアには12ポートのシリンダーヘッドを装着して出走。これによって、2639ccの直列6気筒エンジンは吸排気が大幅に改善され、出力、トルクとも向上した。翌シーズンは競技参加も増え、ビッグヒーレーは数多くの成功を収めた。

市販車の最終組み立ては1957年にオースチンのロングブリッジ工場からMGのアビンドン工場に移り、ヒーレーのラリー活動は1958年からブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)のコンペティション部門が責任を負うこととなった。登録ナンバーに付く「MO」は、アビンドンで製造されたことを示す。一方、サーキットレース用の車両は引き続きウォリックにあったヒーレーの本拠地で準備された。

名高いマーカス・チェンバーズがBMCのコンペティション部門責任者として目を光らせる中、1958年のアルペン・ラリーには総勢5台の100/6で参戦。パット・モスがレディーズカップを制し、ビル・シェパードが総合7位でフィニッシュした。モスとコ・ドライバーのアン・ウィズダムは、続くリエージュ-ローマ-リエージュでPMO 201を駆って4位に。翌1959年には、ジャック・シアーズ/ピーター・ガーニエ組がチューリップ・ラリーのGTクラスで優勝した。

その頃には3000が登場していた。3000こそ、ラリーの歴史におけるヒーレーの地位を確立したモデルだ。そのすべての出発点となったのが1959年の3台のワークスカー、SMO745と746、そして今回試乗した744である。SMO 744は、ビル・シェパードのドライブでアルペン・ラリーに出走したが、リタイアに終わった。しかし、リエージュ-ローマ-リエージュではピーター・ライリーによってクラス優勝に輝いた。他の2台も、モス/ウィズダム組がラリー・ドイツで総合2位、ドンとアールのモーリー兄弟がRACラリーでクラス優勝と、大活躍した。ヒーレーで何度も成功を収めることとなるモーリー兄弟は、最高の意味の“アマチュア”で、その活動スケジュールは家族が営む農場の収穫時期を考慮して組まれていた。

オースチン・ヒーレーの権威で、今回紹介した2台の3000の面倒を見ているポール・ウールマーが、背景を説明してくれた。「登録ナンバーPMOのワークス100/6は標準の市販車と大差なかった。たいした開発は行われなかった。予算が厳しかったためだ。しかし、1959年に3000が登場すると、会社は派手な広報活動を展開したいと考えた。新車を宣伝したかったからだが、それだけでなく、時代の先を行く素晴らしい車だったからだ。そこで、ラリーを通して3000を大いに宣伝したんだ」

標準の3000が13/4インチのSUキャブレターを2基搭載したのに対し、ワークスカーのSMOは2インチのユニットを3基搭載。圧縮比を引き上げ、カムシャフトもアップグレードし、4輪すべてにディスクブレーキを装着した。しかし、モディファイといえるのはその程度だった。

SMO 744は翌1960年もワークスカーとして活動した。ライリーが744をドライブする予定だったセストリエーレ・ラリーは開催が中止され、サーキット・オブ・アイルランド・ラリーではパット・モスがリタイア、アクロポリス・ラリーでもライリーがリタイアした。しかし、リエージュではデビッド・シーグル-モリスが5位に、ドイツではモーリー兄弟が12位で完走。そしてRACラリーでロニー・アダムズが総合39位でフィニッシュし、744のワークスキャリアは幕を閉じた。

1950年代後半、BMCはラリーに複数のモデルをエントリーしてクラス優勝を狙った。例えば1959年にも、オースチン・ヒーレー100/6と3000に加えて、オースチンA40ファリーナ、A35、A105、オースチン・ヒーレー・スプライト、ライレー・ワン・ポイント・ファイブ、MGAツインカム、ウォーズレー1500、モーリス・マイナーが出走している。しかし、1960年代になると総合優勝が重視されるようになり、コンペティション部門はミニとビッグヒーレーに資金と人員を集中させるようになった。

「ラリーでは競争が激化し、車も以前に比べればある程度モディファイされるようになった」こう話すのは、1961年にマーカス・チェンバーズからコンペティション部門責任者の座を引き継いだスチュアート・ターナーだ。それまでコ・ドライバーを務めていたターナーは、こんな逸話も教えてくれた。「私は幸運にも、1958年に英国ラリー選手権の初代チャンピオンになった男の隣に座った。あるラウンドで、数日前に車にトラブルが起きた。そこで彼は近所のトライアンフディーラーからTR3を借りて、私たちはそれで優勝したんだ。私は月曜にその車をディーラーに返し、再び展示車両に仲間入りするのを見たよ。これ以上の“標準仕様”があるかい?」

オースチン・ヒーレーはラリーにうってつけの車だったとターナーは振り返る。「3000は頑丈でシンプルだ。アルペンやリエージュのようなイベントには理想的だよ。私は3000に弱いんだ。マネジメントに移る前の最後のイベントで走った車だからね。デレック・アストルと出走したラリー・ポーランドだった。彼は素晴らしい“キャラクター”だったよ。ラリーからの帰り道で、遠くに国境警備兵を見つけた彼は、その警備兵に向かって高速道路を突進していって、数フィート手前で急停止させたんだ。警備兵も見事な反応を見せた。即座に銃の安全装置を外してね…」

親会社のBMCはすこぶる協力的だったという。「年に1回、会長とアレック・イシゴニスが出席するコンペティション委員会があった。MGでの上司のジョン・ソーンリーと一緒に議題を準備し、私が議事録も作ったけれど、あとは好きにやらせてくれた。といってもストーク卿が来る(レイランドとの合併を指す)前の話だけれどね。感謝しているよ」

「私はイベントについて、コ・ドライバー(イギリス人が多かった)はもちろん、ダグ・ワッツと彼が率いるメカニックたちとも大いに話し合った。売り上げを追い求めて、ここへ行け、あそこへ行けとプレッシャーを掛けられたことは一度もない。一番いい結果が出せると私が考えるイベントに出走していた」

コンペティション部門を引き継ぐなら、「ミニ・クーパーが登場してからにしろ」というのがターナーの持論だ。イシゴニスが生み出した革命的な小型車は、1960年代が進むにつれて主役の座を占めていった。しかし、頑強なヒーレーのほうが適したイベントもあったとターナーは指摘する。例えばアルペン・ラリーでは、1961年にモーリー兄弟が総合優勝に輝き、1962年には連覇を果たした。

ポール・ウールマーは次のように説明した。「ヒーレーには巨大なシャシーがあった。シャシーレールも素晴らしく大きい。ワークスカーはその底面をさらに補強していた。下からの衝撃に耐えられるよう、スチールの厚みを増やしてね。もちろんサンプガードも装着していた」

それでも車体は多くのダメージを負った。「車はひどい状態で戻ってきたものだ。手元にリエージュでのBMOの写真が何枚かある。そのときは何度もパンクに見舞われた。タイヤの開発が追いついていなかったんだ。スペアを2本載せていたけれど、それを使い果たしてしまったらどうするか。あとはリムで走り続けるしかない。リアのホイールアーチが完全にボロボロになった写真もある」

「車が戻ってくると、裸の状態にして、交換が必要なものはすべて交換した。唯一、使い続けたのがハードトップだ。ラリーステッカーを貼っていたからね。ルーフは車のアイデンティティーだった。フェンダーやドアは何の気兼ねもなく交換したが、ハードトップだけは残した」

1961年まで、ワークスのラリー・ヒーレーは2+2ではなく、すべて2シーターのボディシェルを使用していた。軽さと強度に優れるだけでなく、リアのバルクヘッドでサスペンションを強固に支持できたからだ。1961年にBMCは量産車をアップデートした。新しいMk.IIは、グリルが変わり、標準でトリプルキャブレターとなった以外に大きな変更点はなかった。翌年、さらに変更が加えられ、ウィンドスクリーンがカーブした形状となり、クォーターウィンドウを装備して、より洗練された車となった。中央にギアシフトを配置するのが標準となり、2シーターボディは廃止された。そのため、BMOのような後期のラリーカーは2+2のボディシェルを使用せざるを得なかった。車内のスペースが増えたのはよかったが。

ワークスカーに影響した大きなモデルチェンジはもう一度あった。1964年5月に発売となったMk.IIIフェーズ2だ。シャシーがリアアクスルの下を通る部分でへこむ形状となったため、それまで悪路でヒーレーの弱点となっていたライドハイトを上げることが可能となった。

オースチン・ヒーレーがワークスのラリー・プログラムで主力を演じたのはその年が最後だったが、見事に有終の美を飾った。BMO 93Bは2度出走している。RACラリーはモーリー兄弟によって総合21位で終えたが、その前に開催されたスパ-ソフィア-リェージュ・ラリーではアルトーネン/アンブローズ組が名高い総合優勝を遂げたのだ。このマラソン・デ・ラ・ルートが伝統的なフォーマットで開催されたのはこれが最後だった(翌1965年からはニュルブルクリンクでの84時間レースに)。

BMOをはじめとするワークス・ヒーレーは、アルミニウム製シリンダーヘッドや高い圧縮比、スポーティーなカムシャフトやアルミニウム製ボディパネルなどの装備を誇った。しかし、スパ-ソフィア-リェージュ・ラリーでは、その耐久レース的な性格から、純粋なパフォーマンスより依然として信頼性のほうが重要だった。ミニの完走がヒーレーでの優勝と同じくらいうれしかったとターナーが語っているところにも、BMCの2大スターの違いがよく現れている。

「ラウノの成功を支えたのは、その知性と細部までおろそかにしないラリーに対する姿勢だった。彼は偉大なドライバーだ」とターナーは称える。事前に周到な準備をするアンブローズとのコンビは完璧だった。アンブローズは、アルトーネンに睡眠が必要なときはいつでもドライビングを代わった。ある夜など、77マイルのセクションを52分で走破した。

二人は前年の1963年もトップを走ったが、イタリアでクラッシュしてリタイアを余儀なくされた。だが、この年はそんな悲運とは無縁だった。ドロミテ山地をあとにする頃には、後続のエリック・カールソンに28分ものリードを築いていた。あとは無事スパにたどり着くばかりだ。睡魔に打ち勝つため、二人は30分ごとに運転を交代した。それも、車を止めずに、である。いくらBMOが2+2のボディシェルで車内に余裕があったとはいえ、信じられない芸当だ。アンブローズものちに「簡単ではなかった」と控えめに語っている。アンブローズにとって、苛酷を極めたこのイベントの最後の思い出は、祝勝会の最中に眠りに落ち、タルタルステーキに顔から突っ込んだことだった。

翌年は、ティモ・マキネン/ポール・イースター組がRACラリーを総合2位でフィニッシュした。ヒーレーが祖国で優勝することはついになかったのである。こうして3000の時代は終焉を迎え、代わってミニがロータス・コルティナといったライバルの激しい追撃を受けて立った。ドン・モーリー曰く「大きな赤毛のモンスター」は、絶滅を間近にした種の最後の生き残りだった。長く苛酷な公道ラリーを完走するためのモデルは姿を消し、短いステージを疾駆するマシンに取って代わられていく。

偉大なる故パット・モスは、かつてBBCのインタビューでオースチン・ヒーレーについてこう語った。「あの車で走ったドライバーは皆、恐れをなしていたと思うわ。乾いたターマックでは路面を非常によく捉えたけれど、グラベルや砂に乗ったり、ましてやアイスやスノーだったりしたら、もう笑ってはいらなかった。パワーは最終的に200hpほどで、とても難しい車だったけれど、私たちは素晴らしいと思っていた。なにしろ速かったのよ」

取材協力:Pauland Richard Woolmer/Woolmer Classic Engineering


 1964年オースチン・ヒーレー3000“BMO 93B”
エンジン:2912cc、直列6気筒、OHV、ウェバー製45 DCOEキャブレター×3基
最高出力:210bhp/5800rpm 最大トルク:29.0kgm/3800rpm
変速機:前進4段MT(3速と4速にオーバードライブ)、後輪駆動
ステアリング:カム&レバー
サスペンション(前):ロワーウィッシュボーン、コイルスプリング、
レバーアーム・ダンパー
サスペンション(後):リジッドアクスル、半楕円リーフスプリング、
アジャスタブル・レバーアーム・ダンパー、ラジアスアーム、パナールロッド
ブレーキ:4輪ディスク 車重:1150kg
最高速度:通常209km/h 0-100km/h加速:約9秒(ギア設定による)

 1959年オースチン・ヒーレー3000“SMO 744”
エンジン:2912cc、直列6気筒、OHV、SU製2インチ・キャブレター×3基
最高出力:約150bhp/5100rpm 最大トルク:約25.6kgm/3400rpm
変速機:前進4段MT(3速と4速にオーバードライブ)、後輪駆動
ステアリング:カム&レバー
サスペンション(前):ロワーウィッシュボーン、コイルスプリング、
レバーアーム・ダンパー
サスペンション(後):リジッドアクスル、半楕円リーフスプリング、
アジャスタブル・レバーアーム・ダンパー、パナールロッド
ブレーキ:4輪ディスク 車重:1090kg
最高速度:通常193km/h 0-100km/h加速:約12秒(ギア設定による)

Octane Japan 編集部

最終更新:4/16(火) 17:26
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