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プリンス自動車のインサイドストーリ― 第4回│プリンスとフランコ・スカリオーネ

4/17(水) 12:37配信

octane.jp

プリンス自動車とイタリアのかかわりについて掘下げる第二回は、フランコ・スカリオーネの話。

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それは大先輩の何気ない一言から始まった。1988年の夏から秋にかけてのある日、社内の有志数名で中川良一さんの話をうかがう機会を設けたことがある。話がおわり、懇談時間になった時のこと。中川さんは一枚の写真を取り出して見せてくれた。日産自動車村山工場の奥にある倉庫で中川さんが撮影したその写真には、わたしの知らないクルマが写っていて衝撃を受けた。

写真には埃まみれになった3台のクルマがあり、そのうちの2台までは存在を知っていた。1台は1963年の東京モーターショーに出品されたプリンス1900スプリント、そしてもう1台はプリンスが開発し、世に出ることのなかった国民車CPSKである。正体不明のクルマは、CPSKほどの大きさをもつクーペだった。

そもそも中川さんがその写真を取り出すきっかけになったのは、わたしがフランコ・スカリオーネの名を口にしたからである。同じ会社に勤める身内意識と、全員が額を寄せ合うことのできるくらいの人数だったことから、その場は終始なごやかな空気に包まれていた。そのような場の雰囲気にうながされ、雑談の話題は好きなクルマに及んだ。

本来なら日産やプリンス系のクルマで応えるべきだったのかもしれない。ところがわたしはスカリオーネによるティーポ33ストラダーレの名を挙げてしまった。これは全くの本音で、4灯の33ストラダーレは現在でも最も気になるクルマの一台である。 

そこで登場したのが上記の写真。この小さなクーペは何ですか、と訝るわたしに、大先輩である中川さんはただ一言、調べてごらんなさい。この時に中川さんがみせたわたしを覗きこむような表情は今でも忘れることができない。拙著「プリンスとイタリア」は、この一瞬に端を発している。

わたしがそのクルマの名称を知るのは、それから3年後のことだった。その名はCPRBという。

1991年の暮のこと。大掃除の準備で廃却書類の仕分けをしていると、偶然、廃棄候補のなかに小さなクーペの図面を発見する。近くにはそのクーペのベースである国民車の図面も揃っていて、どちらも廃棄候補だった。図面が描かれてから30年近くも残っていたのは、それまでは誰も廃棄を思いきることができなかったからだろう。とはいえ、そのままにしておくといずれは廃却されてしまう。だからといって、黙って持ち帰ることはさすがに憚られた。そこで図面管理部署の担当者にそれらの図面の貰い受けを願い出た。回答は拍子抜けするほど簡単明瞭なものだった。すなわち、日
産の図面ではないのでご随意に、とのこと。たしかに図面に残る会社名は富士精密工業で日産自動車ではない。お役所的なのも、時には悪くないものだと痛感した。

尖った鉛筆で丁寧に描かれた二枚の外観三面図。その図面から国民車はCPSK、小さなクーペはCPRBと呼ばれていたことが判明したのである。 ここで簡単にCPSK、CPRBの意味するところを説明しておこう。

まず、これらのクルマが企画された1950年代後半から60年代初頭にかけてのプリンス、正式には富士精密工業におけるエンジンの名称について。富士精密工業が最初に開発したエンジンは1500ccのFG4A。この略号のFは富士精密、Gはガソリン(エンジン)、4は気筒数。そしてAがエンジンモデルを意味している。FG4Aに続くFG4Bが1900ccエンジン、FG4Cは水平対向599ccエンジンを示している。

プリンス初期の車両名称も同様の略語から成り立っている。ガソリンエンジンによる最初の乗用車はプリンスセダン:AISH。この略語は最初のAがFG4AのA、続くIはシャシ変番、その次のSは車型でこの場合はセダンのS、トラックならT、バン型ならVになる。最後のHはその前のSとセットになっていて、セダンとしてH=アルファベット順で8番目、のボディであることを表している。

この定義に沿ってCPSK、CPRBを読み解くと、CPSKはFG4Cを用い、Pと称されるプラットフォームでセダンとしてK=11番目のボディをもつクルマ、CPRBはCPSKとエンジン・プラットフォームを共用したR=ランナバウト(クーペ)でクーペボディとしては2番目のクルマということになる。ちなみにプリンスとして最初のクーペボディはスカイラインスポーツで、型式はBLRAである。

いよいよCPRBの話。CPRBの誕生にはいくつもの偶然が折り重なっている。まずはCPRBをデザインしたフランコ・スカリオーネとの接点について。

当コラムの前回に登場した井上猛さん。1959年11月に最新のデザイン手法を学ぶためにイタリアを赴いたものの、1960年4月になっても思うような研修先には恵まれていなかった。このままではスカイラインスポーツに関連した雑務のみでイタリア滞在期間が終わってしまう。おそらくそのような危機感を抱いたことだろう。というのも、研修先のあてもないまま渡伊してから、ピニンファリーナ、ツーリング、アレマーノ、ツァガート、スカリエッティ、ベルトーネ、ギア、そしてスカイラインスポーツのデザインを委託することにしたミケロッティにも研修の受け入れを打診していたのだが、それらの全てから断られていたからである。井上さんにとって最後の望みが、ベルトーネを辞して独立したばかりのフランコ・スカリオーネだった。

それまでは周到に事前に約束を取り付けてから訪問していた井上さんは、ここで一気に賭けにでた。明治生まれの井上さんらしく、げんを担いで天長節(天皇誕生日)を選び、いきなり、何の前触れもなしにスカリオーネの自宅を訪ねている。1960年4月29日のことである。これが奏功した。1916年生まれのスカリオーネにとってひとまわり以上も年長の1902年生まれの井上さんが、見知らぬ地で孤軍奮闘している姿に、独立したばかりの自らの姿を投影したのかもしれない。

スカリオーネはその場で井上さんの受け入れを快諾している。ちなみにスカリオーネの新しいオフィスが開業するのは、それから3カ月以上も先の8月5日のことだった。

第二の奇蹟はその年の11月に起こる。スカイラインスポーツの晴れ舞台であるトリノショーを視察するためイタリアを訪れた中川良一さんが、日本に帰国する直前の11月14日に、井上さんが自ら切り開いた研修先であるスカリオーネのオフィス:ステュディオ・チゼイを陣中見舞いするのである。スカリオーネはそもそも航空機にかかわることを目指していたこともあり、零戦のエンジンを設計した中川良一さんに対しては畏敬の念を抱いていた。中川さんが訪ねた日は、スカリオーネには珍しくネクタイにスーツ姿で、自分の業績についても詳しく説明している。

詳解されたスカリオーネの作品のなかにはNSUのプリンツをベースとしたスポーツカーの姿もあった。プリンスは当時、NSUからプリンスの名称について訴訟を起こされており、スカリオーネの説明のなかでNSUの部分は中川さんの印象に深く残ったことだろう。

翌朝、空港へ見送るために井上さんが中川さんを滞在先のホテルに訪ねると、中川さんはその場で井上さんにひとつの構想を伝える。それこそが、NSUのプリンツを彷彿とさせるプリンスの国民車CPSKをベースにしたスポーツカー、CPRBの基本構想だった。CPRBはスカリオーネのデザインしたNSUのプリンツ・スポーツに成り立ちが酷似している。スカリオーネが生涯にデザインした唯一の日本車の誕生、そこには、上述のような背景が潜んでいたのである。

中川さんの突然のひらめきによるCPRB、その後の進捗も偶然を味方につけたものだった。プリンス本社からスカリオーネに対し、正式にCPRBのデザイン委託がなされるのは翌1961年3月のこと。それまではイタリアで制作されたスカイラインスポーツの日本への出荷、そしてスカリオーネとの細かな契約条項の詰めなどに費やされている。

スカリオーネが5案のデザインスケッチをプリンスに送付するのは、契約締結から約1カ月後の4月12日。短期間にいくつものデザイン案をまとめることができたのは、この話が具体的に持ち上がった1月の時点から、スカリオーネが構想を始めていたことの証だろう。プリンスは木型まで完成させることをスカリオーネに求めていた。ところが独立したばかりのスカリオーネには、まだ特定の木型工房との深いつながりもできていない。そこで井上さんが一計を案じる。スカイラインスポーツで世話になったサルジョットの活用である。ちょうどプリンスがスカイラインスポーツを日本国内で生産するにあたり、サルジョットの工房から指導の職人を派遣してほしいと願い出ていた時期でもあった。

CPRBも視野に入れると、サルジョットたちの訪日は不可欠。井上さんの必死の口説きにより、ようやくサルジョットと配下の職人3人が日本行きを決めるのは6月のことである。

こうして期せずしてプリンス、否、井上さんはスカリオーネとサルジョットを結びつけてしまった。スカリオーネがCPRBの後に手掛けたランボルギーニ350GTVのボディを制作したのがサルジョットの工房だったのは、このようないきさつによるもので、ここにもプリンスの足跡が大きく影響しているのである。

冒頭にも記したように、そこには3台のクルマ、プリンス1900スプリント、CPSK、そしてCPRBが写っていた。この写真は何度か雑誌でもとりあげられたことがあるので目にした方もおられることだろう。埃にまみれた3台の姿は痛々しい。

1980年代前半に撮影された時は、たとえ埃が積もった状態であっても、3台は確かに存在していた。それらが歴史的にも重要なR380―Ⅰと併せて廃棄処分にされたのは1985年だったといわれている。

貴重な4台が村山から運び出される姿をみて、即座に関係方面にスクラップ作業の中止を申し入れた日産のスタッフがいる。彼の弁によると、電話先の廃棄業者の担当者は、4台が廃棄場に到着すると同時にスクラップにしてしまった、と応えたとのこと。それは、あまりに不自然な迅速さだったので、それらのクルマがひっそりとどこかに持ち去られた可能性を感じたそうである。わたしも、いつの日か、これらのクルマたちが忽然と目の前に現れることを願ってやまない。

Octane Japan 編集部

最終更新:4/17(水) 12:37
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