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世界的ロングセラー『夜と霧』の双子の兄はいかにして生まれたか―ヴィクトール・E・フランクル『死と愛【新版】―ロゴセラピー入門』河原 理子による解説

4/17(水) 7:00配信

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世界的なロングセラーとして600万を超える読者に読み継がれているフランクルの『夜と霧』。この本の誕生には「双子の兄」ともいうべきもう一冊の本『死と愛』の存在が深く関わっていました。強制収容所での絶望的な体験から、いかにしてフランクルは再生し、その体験を書き記すことができたのか。このたび新版刊行にあたり、新たに追加された解説の一部を抜粋してお届けします。

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“新刊!

あらゆる医師のための、そして、生きることと苦悩の意味を求めてもがくあらゆる人のための本”


『死と愛』の原著が1946年にウィーンのドイティケ社から出版されたとき、初版本には、こんな宣伝文句を書いた帯がついていた。

初版は数日で売り切れた、といわれている。部数もそう多くはなかったらしいが、戦争が終わってなおさまよう心に、この宣伝文句はしみたかもしれない。大きくて厚みのある本だが、この年だけで第3版まで出ている。翌年には第4版が出た。

対照的に、同じ1946年に出た双子のような本『夜と霧』が当時はさほど売れなかった、と聞くと不思議な気がする。のちに世界的ロングセラーになったのに。1947年に第二版が出たものの大部分が処分されたという。『夜と霧』の原題は、『一心理学者の強制収容所体験』。ようやく戦争が終わったのに、ナチスドイツの強制収容所の体験記に向き合うのはしんどい気分だったのだろうか。

『死と愛』は、大学で教える資格を得るための論文のもとになった学術書で、そのなかの「強制収容所の心理」の部分を拡大して一気に口述筆記したのが、『夜と霧』である。ヴィクトール・フランクル(1905-1997)の第二次大戦後の出発点となった重要な著書である。最初の本と2冊目の本というだけでなく、これを書いたとき、フランクル自身が「生きることと苦悩の意味を求めてもがく人」だった、という点で重要である。評伝のなかで、フランクルはこんな風に語っている。


“オーストラリアにいる妹をのぞいて家族全員を失った私にとって、死の前にやっておきたい仕事はこれだけだった。それをのぞけば、私には生き続ける理由はなにもなかった。でも、自殺だけはするまいと決心した--少なくとも最初の本『死と愛』を完成させるまではね。私はこれに加筆し、それが大学講師となるための資格取得論文となった。
(『人生があなたを待っている〈夜と霧〉を超えて 1』 ハドン・クリングバーグ・ジュニア著 赤坂桃子訳 みすず書房)”


ユダヤ人の精神科医だったフランクルは、37歳から40歳まで、ナチスドイツの4つの強制収容所で過ごした。プラハ北方のテレージエンシュタット、アウシュヴィッツ第2収容所ビルケナウ、ドイツ南部にあるダッハウ強制収容所の支所のカウフェリング第3、同じく支所のテュルクハイム。

1942年9月にフランクルは故郷ウィーンを追われて、新婚のティリーと両親とともに、テレージエンシュタット収容所に送られた。ここでは医師として活動する余地があり、高齢の父をみとることができた。ここに母を残して、1944年10月、フランクルは妻とアウシュヴィッツに移送され、アウシュヴィッツの停車場で男女別々にされて、以後、妻に会うことはなかった。ドイツ南部に戦闘機工場を急いで作るために、フランクルはわずか数日でアウシュヴィッツからカウフェリング第3へ移送されて、凍てつく冬の工事現場で働かされた。そしてテュルクハイムで病んで春を迎えて、1945年4月にようやく解放された。

しかし、解放されたら幸せな生活が戻るわけではなかった。

母はアウシュヴィッツに送られてガス室でいのちを奪われていた。フランクルは8月にようやくウィーンに帰りついて、妻ティリーがドイツ北部のベルゲン=ベルゼン収容所で解放後ほどなく--おそらくは衰弱して--死亡していたことを、知る。

どのような思いだったことだろう。『夜と霧』の終わりの方の、解放後のことを書いたところに、フランクル自身のことだと思われる記述がある。


“彼が収容所で唯一の心の拠り所にしていたもの……愛する人……がもはや存在しない人は哀れである。〔略〕彼は市電に乗り、それから彼が数年来心の中で、しかも心の中でのみ見たあの家の所で降り……彼が多くの夢の中で憧れたのと全く同じように……呼び鈴を押し……だが、ドアを開けるべき人間はドアを開けないのである……その人はもはや決して彼のためにドアを開けてくれないであろう……。

〔略〕解放された囚人のうち少なからざる人々が新しい自由において運命から受け取った失望は、人間としてそれをこえるのが極めて困難な体験であり、臨床心理学的にみてもそう容易に克服できないものなのである。しかしそうだからと言って、それは心理学者の勇気をはばむことには一向ならないのである。〔略〕なぜならばそれは使命的性格をもっているからである。
(『夜と霧 ドイツ強制収容所の体験記録』フランクル著 霜山徳爾訳 みすず書房)”


苦悩のなかで、自分が生きてこの世にのこされたことの意味を探している。

のちの回想録ではこう語っている。


“ウィーンにかえって間もないある日、私は友人のパウル・ポラックを訪ね、私の両親、兄、そしてティリーの死を報告した。今でも覚えている、私は突然泣き出して、彼に言った。

「パウル、こんなにたくさんのことがいっぺんに起こって、これほどの試練を受けるのには、何か意味があるはずだよね。僕には感じられるんだ。あたかも何かが僕を待っている、何かが僕に期待している、何かが僕から求められている、僕は何かのために運命づけられているとしか言いようがないんだ。」
(『フランクル回想録 20世紀を生きて』フランクル著 山田邦男訳 春秋社)”


フランクルが自死するのではないかと心配した友人たちが、仕事を世話し、論文を書き上げられるように勧めた。フランクルは論文に没頭する。


“私は毎日心情を吐露するように口述したのである。部屋には暖房もなく、ほとんど家具もなかった。窓にはガラスの代わりにボール紙がはってあっただけだった。まるでほとばしり出るように私の口から言葉が飛び出した。口述中、私は部屋を行きつ戻りつしながら、時折、自分自身のことを思い出しては、疲れきって安楽いすに崩れ落ちた。涙がとめどもなく溢れ出た。(『フランクル回想録』)”


このようにして仕上げた『死と愛』は、フランクル自身が、困難な状況のなかで、なんとか意味にまなざしを向けて生きた、実践のあかしなのだ。

いまの読者は幸いだ。『夜と霧』『死と愛』が出たばかりの1950年代の日本とは違い、フランクルのさまざまな著作の翻訳が出版されている。『死と愛』の原著はこのあと大幅に改訂されており、最終形といえる第11版をもとにした翻訳が『人間とは何か 実存的精神療法』という題名で2011年に出ている(山田邦男監訳、春秋社)。第11版は、本書のもとになった第6版の1.7倍の頁数がある。読み比べてみると、かなり書き換えられていることがわかるし、フランクルの戦後の原点に近い本書をこうして読み継ぐことができる貴重さもわかる。この本をのこしてくれた先人に、感謝するばかりである。

[書き手]河原 理子(朝日新聞記者、日本ロゴセラピスト協会会員)

みすず書房

最終更新:4/17(水) 7:00
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