ここから本文です

早稲田大学競走部の元主務だった男が、ランナーに戻って100km世界選手権2位の快挙を成し遂げられた理由とは

4/17(水) 17:40配信

4years.

私、M高史と同じく現役時代はマネージャーで、その後も深く駅伝に携わっている方を紹介するシリーズの第3弾です。今回は早稲田大で主務を経験し、昨年9月にクロアチアで開催されたIAU100km世界選手権で銀メダルを獲得した行場(ぎょうば)竹彦さん(33)。行場さんはなぜまた走り始め、どのようにして力をつけてきたのでしょうか。

中学時代は相撲で全国大会へ

「両親が市民ランナーだった影響で、4歳のころにはマラソン大会に出場してました」という行場さん。ぜんそく持ちで、克服するため小5のときから週3、4回は5kmほど走っていたそうです。

中学に入ると陸上部がなくて、代わりに相撲部とバレーボール部に入ります。相撲部では団体で全国大会に出場する活躍ぶりでした。ただ、全国大会本番は補欠だったそうです。当時は53~54kgほどの体重で、80kg以上もある選手たちと戦っていました。このときに鍛えた強靭な足腰が、100km世界選手権の銀メダルにつながったのかもしれません。

相撲とバレーに明け暮れた中学校生活でしたが、駅伝にも出ました。川崎市では学校対抗で走る機会があり、3000mの自己ベストは10分38秒でした。地元の進学校である神奈川県立多摩高校に進学。ちょうどその年、県立生田東高校を全国高校駅伝に導いた深谷昌昭先生が異動されてきたため、いきなり陸上部の練習がキツくなったそうです。

「意外といいものを持ってる。ただ練習では強いけど、本番で出しきれてない」。深谷先生からこう激励されながら本格的に走り始めた行場さんは、飛躍的に記録を伸ばしていきました。高校時代の自己ベストは5000m15分20秒。勝負どころになると、ぜんそくがぶり返すこともあったそうです。

駅伝メンバーに選ばれていた同級生たちは、陸上だけなく勉強の成績もよかったそうです。行場さんも勉強に力を入れ、指定校推薦で早大へ進学しました。

早大同期との話し合いでマネージャーに転向

早大入学後はすぐに競走部に入部するも寮には入れず、所沢キャンパスに近い小手指駅の周辺で一人暮らしをします。グラウンドまでは約4.5km。「当時、早稲田の競走部では自転車が禁止だったため、朝練の往復は走って移動してました。朝練のたびにグラウンドまで片道4.5km走って、全体練習で10kmほど走り、再び4.5km走って帰って……。いま思うと朝からすごい距離を走ってましたね」と苦笑いの行場さん。商学部生だったため、授業は早稲田キャンパス。練習は所沢キャンパスなので、移動も大変だったそうです。

当時の自己ベストは5000m15分13秒。早大では各学年で一人マネージャーを出す決まりがあり、行場さんは2年生の夏、同級生たちと誰がマネージャーになるかを話し合いました。ミーティングを繰り返した結果、行場さんがマネージャーに転向することになりました。

3年生の春からは入寮して副務に、そして4年生では駅伝主務になりました。箱根駅伝の思い出を聞いてみると、「3年生のとき、往路だけ運営管理車に乗りました。復路は相楽(豊)コーチ(現早大駅伝監督)が乗りました。4年生になると競技者バス係で全区間をまわりましたね。全日本大学駅伝、出雲駅伝に関しては当時、早稲田が久しぶりの出場だったこともあり、マネージャーのマニュアルがなくて大変でした」とのこと。

行場さんの恩師である渡辺康幸監督(現住友電工監督)についてうかがったところ「ポジティブな方で、一緒にいるだけで明るくなれる方です!! 」と、魅力を語ってくださいました。

1/2ページ

最終更新:4/17(水) 18:52
4years.

こんな記事も読まれています

あなたにおすすめの記事