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【平成の事件】行き場失う「住人」 川崎簡易宿泊所火災があぶり出した「ひずみ」

4/17(水) 10:00配信

カナロコ by 神奈川新聞

 港や工業地帯を抱える大都会の片隅にひっそりと存在する簡易宿泊所(簡宿)街が、騒然とした雰囲気に包まれた。風にあおられた猛火が、2棟の古い木造建築を瞬く間にのみ込んでいく。2015年5月17日未明の川崎市川崎区日進町。11人の死者と17人の負傷者を出す大惨事となった簡宿火災は、街の在りように一石を投じるとともに、行政の福祉施策に重い課題を突き付けた。(神奈川新聞記者・三木崇)

生活困窮者の受け皿に

 焼け跡に残された真っ黒の骨組みと、周辺に漂う焼け焦げた臭いが、火勢のすさまじさを物語っていた。「とにかく火の回りが早かった。一度は死を覚悟した」。出火当時、2階にいた男性(57)は声を震わせ、振り返った。

 かろうじて逃げ出したものの全てを失った男性(73)は、着の身着のままで立ち尽くし、途方に暮れていた。火元の簡宿で15年間暮らしていた男性の部屋は、わずか3畳という狭さ。トイレは共同で、テレビを見るにも100円玉が必要だ。それでも「過酷だった路上での生活と比べたら居心地が良かった」。気の置けない同世代の友人もできたという。

 火災から1年後、更地となった簡宿跡地を再び訪れた男性は、静かに手を合わせて誓った。「亡くなった友人の分も生きよう」

 簡宿は昭和の高度経済成長期、大都会の一定のエリア内に集中する形で相次いで建設された。主な利用者は、港湾荷役や工場、造船所、工事現場などを渡り歩く日雇い労働者。保証人が必要なく、日払いだが安い賃料を設定しており、次の仕事を見つけるまでの「仮住まい」として重宝されてきた。

 バブル期が終わり平成を迎える頃になると、利用者層が様変わりする。姿を消した日雇い労働者に代わり居室を埋めていったのは、故郷を離れ一人で暮らさざるを得ない事情を抱えた人々だった。独力ではアパートなどの確保が困難で、ようやくたどり着いた簡宿での暮らしは長期化。中には体が不自由な人もおり、日々の糧は多くの場合、生活保護となる。受け入れのハードルが低い簡宿の存在は行政にとっても好都合で、生活困窮者の受け皿として積極的に活用。火災の犠牲者の大半は、こうして簡宿に腰を落ち着けた高齢者たちだった。

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最終更新:4/17(水) 17:22
カナロコ by 神奈川新聞

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