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日露の架け橋(4) 足かけ30年ロシアで踊り続けて

4/18(木) 0:26配信

毎日新聞

 モスクワ近郊の劇場で4月15日、一人の日本人バレリーナが自身の50歳を祝う公演に出演した。3時間に及ぶ舞台が終わると、客席に向け頭を下げた。日本から駆け付けた母親へ、これまで支えてくれたロシア人の夫へ、初めて舞台で共演したダンサーの息子への感謝が込められた一礼だった。

 主役のダンサーは千野真沙美さん(50)。約30年前にモスクワに渡り、日本人として初めてロシア・バレエ界に入っていった一人だ。途中で日本に戻っていた時期もあったが、足かけ30年も本場の舞台に立ち続けた。その軌跡をたどると共に、前後2回に分けて今の千野さんがどのような思いを抱くのかを追ってみる。

 ◇日本人ダンサーの先駆者

 母親の谷口登美子さん(87)が東京都町田市でバレエ教室を主宰していたことから、幼い頃に踊り始めた。東京都内の私立高を卒業した翌年の1988年、ソ連時代のモスクワに渡航し、ボリショイ・バレエ学校(正式名称・モスクワ国立舞踊アカデミー)に途中入学。90年に中堅のロシア・バレエ団(モスクワ)に入ったが、94年に一度飛び出し、2年後に出戻った。

 後にロシア最高峰のボリショイ・バレエ団で活躍した岩田守弘さん(48)も、千野さんの後輩に当たる。岩田さんもボリショイ・バレエ学校で学んだ後、千野さんのツテでロシア・バレエ団に入り、キャリアの第一歩を踏み出した。このように千野さんとかかわった日本人ダンサーは少なくない。

 渡航直後の千野さんは多くの辛苦を味わった。ロシア・バレエ団では配役を奪われたロシア人の同僚から「日本人なんだから日本で踊れ!」と罵声を浴びせられた日も。ソ連末期から新生ロシアの誕生直後は、物不足に見舞われた。千野さんも日本大使館に行く用事があった時にはトイレットペーパーをくすねていたと打ち明ける。

 ◇遅咲きのバレエ人生

 ダンサーとしての千野さんは遅咲きだった。21歳でロシア・バレエ団に入団したが、スタイルが良く、整った顔立ちのロシアの同僚と比べられると、主役への道は遠かった。それでも練習を積み重ね、演目「コッペリア」で初の主役を踊ったのは29歳を迎える直前だった。

 それまで味わった悔しさを踏まえ、千野さんは次のように話す。「すぐに役を与えられた人の踊りは見ていて面白くない。むしろ、なかなか役を与えられなかった人は考え考え踊るから、踊りに味が出てくる」。初めての主役の舞台は、その考えを体現する出来栄えだったといわれている。

 「コッペリア」の主役は千野さんの人生を大きく変えた。舞台を見ていた大学の数学教員アレクセイさん(50)と知り合い、程なく結婚し、翌99年に長男円句(まるく)さん(20)を産んだ。それでも数カ月後に息子を乳母に預けると、千野さんは舞台に戻り、6年間踊り続けた。ソ連時代からの共働きの伝統が残り、ロシアでは出産後のダンサーが踊り続けられる環境が整えられていたのだ。

 ◇一度はキャリアを捨てて

 転機は円句さんが就学年齢を迎えた2005年に訪れた。日本語をほとんど話せなかった息子のことを考えると、夫をモスクワに残してでも、日本で初等教育を受けさせようと決意した。30代半ばにしてダンサーのキャリアを捨て、母として生きる道を選んだのだ。「今でもバレエ団で年配の先生に言われます。『あのまま残っていれば(人気作品の)ジゼルの主役を踊れたはずだよね』と。確かに悔しい」

 円句さんの教育のために日本に戻ったはずだったが、親子の血は争えなかった。「本場のロシアでバレエを学びたい」。息子からロシアに戻りたいと打ち明けられて、千野さん母子は08年に日本を離れた。その後にボリショイ・バレエ学校に入った円句さんは、17年の卒業後にボリショイ・バレエ団に進んだ。今月には人気作品「白鳥の湖」で主役級の悪魔役を初めて踊り、喝采を浴びた。世界最高峰といわれるモスクワ国際バレエコンクール(17年)でも、ジュニア部門の金賞を獲得し、順調にキャリアを積んでいる。

 モスクワに戻った千野さんは再び古巣であるロシア・バレエ団の舞台に立った。主役を踊ることはなかったが、豊富な経験を生かし、さまざまな役をこなした。私が取材を通じ、千野さんと出会ったのも、この時期だった。そして09年からモスクワの日本人学校で、17年からは自身のバレエ団で教官の仕事を始めた。千野さんは息子の舞台を応援しながら、これらの仕事に満足しているように見えた。

 ◇長男との初共演

 4月15日の記念公演では、50歳という年齢にもかかわらず、千野さんは4演目を踊りきった。3作目では円句さんと初めて共演し、アダージョと呼ばれるペアの踊りに挑んだ。180センチを超す息子は母親が回るところを手助けし、軽々と持ち上げ、何度も母親の体を支えた。母親を見つめるまなざしは優しく、手つきは柔らかく、大事な人を守ろうとする思いがにじみ出ていた。

 「これが最初で最後ではないかと思っている。息子に支えられながら踊れた」。公演後の千野さんは「夢を見ていたようだった」と感無量だ。円句さんも「(母を)支えるような気持ちで踊っていた」と振り返る。「2人を誇りに思っている」。客席から見つめた千野さんの夫アレクセイさんも喜びに浸っていた。

 ◇親子3代で舞台に立ち

 公演の場面に戻ろう。歓喜の時は最後の演目後に訪れた。この日の舞台に上がった全ダンサーが見つめる中、舞台袖に現れた千野さんがつま先立ちとなり、ゆっくり移動してくると、拍手のボリュームが一段と上がった。再び円句さんが舞台に現れ、母親の手を取るが、この後に大きな感動が待っていた。

 千野さん母子がクルッと背を向け、舞台後方から招き入れたのが、日本から訪れていた千野さんの母登美子さんだった。つえを握っていたが、自分の足でしっかりと歩み、娘と孫との3人で舞台中央にそろい踏みをした。申し合わせたわけではないだろうが、客席からは「ブラボー」のかけ声が何度か響いた。

 「母が元気で舞台に出てきてくれたことが本当にうれしかった」。直後に千野さんが打ち明けた思いだ。「3代で(バレエを)続けられたことを誇りに思っている」と円句さん。娘と孫と舞台に立った直後だから、登美子さんも「うれしいです」と笑顔を絶やさなかった。

 幕が下りると、ダンサーや公演を支えた関係者が喜びに浸り、記念撮影を続ける中、千野さんは日本人記者団の取材に応じていた。30年近くに及ぶバレエ人生については「ブランクが何度もあり、やめても仕方なかったが(ここまで踊れて)うれしい。ただ踊りたかったとの一心で始めたし、先のことは全然見えていなかった」と振り返る。

 ◇夢を口にした50歳

 次の目標を尋ねられた千野さんは一瞬考えてから、本心を隠さなかった。「夢ですか? 夢はいっぱいあるが、大きなバレエ団で芸術監督をやるという夢はある。(実現するのかは)どうなのかな……」

 公演前に取材していた私は少し驚いた。千野さんは本心を隠さずに話すタイプだが、さすがに多くの記者の前では答えを濁すのではないかと思っていたからだ。それでも「芸術監督になりたい」と明言することをためらわなかった。これまでの彼女の歩みを考えると、大胆な発言といえるだろう。遅咲きのバレエ人生を送ってきた千野さんだが、50歳になった今、野心に目覚めていた。【大前仁】

=つづく

最終更新:4/18(木) 11:14
毎日新聞

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