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ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?

4/18(木) 18:57配信

octane.jp

ジャン-パオロ・ダラーラはランボルギーニ・ミウラの生みの親の一人である。80歳の誕生日に、とうとう彼は自分自身にミウラをプレゼントすることを決意した。

ランボルギーニ・ミウラの生みの親が選んだ自分への誕生日プレゼントとは?(写真11点)

あなたは自分の一番最近の誕生日プレゼントを覚えているだろうか?もし覚えていたとしても、これほど特別なものではないはずだ。レーシングカー・エンジニアにして元ランボルギーニのチーフエンジニアだったジャン-パオロ・ダラーラが自分の80歳の誕生日に自分のために買ったプレゼントは、彼以外の人にとっても忘れられないものだ。1967年ランボルギーニ・ミウラP400なのである。

ダラーラこそそれに値するはずだ。彼はおそらくこの世の誰よりもモータースポーツの世界で成功した人間なのである。彼の会社の何らかの技術的援助なくスタートするレースも、レースでの勝利も存在しないと言っていい。

イタリアのパルマ地方の小さな町出身のジャン-パオロは子供の頃から車を愛し、彼の頭にはミッレミリアの出場車の姿が刻み込まれていた。彼は航空力学のエンジニアになることを夢見て、1950年代半ばにミラノのポリテクニコに入学した。実はそこでエンツォ・フェラーリがレーシングカーのエンジン・テストを行っていたのである。フェラーリが才能ある若いエンジニアの紹介を頼んだ時、候補者リストの一番上に載っていたのがダラーラの名前で、それが彼の人生を決める転機となった。

「私は1959年にフェラーリの技術部門に加わった。カルロ・キティが私のボスだった。彼はエンジンとシャシーの両方の設計に秀でた稀な人物で、同僚にはエンジンのスペシャリストのフランコ・ロッキ、シャシー担当のワルター・サルバドーリがいた。彼らは二人とも当時技術者の天国といわれていたオフィチーネ・レジアーネ出身だった。私は彼らから毎日学ぶことができた。フェラーリはまだ小さく、エンツォ自身が初出社の日に迎えてくれた。そして設計から開発製作まですべての過程を見る時間があった」

彼はほとんどオフィスを離れることがなかったという。構造計算をしたり、ギヤやサスペンションの図面を引いたりと仕事に没頭する日々の中での楽しみは、新しいレーシングカーのシートを試しにやって来るドライバーたちを見ることだった。それは恵まれた環境ではあったが、ダラーラは1962年にフェラーリからマセラティに籍を移す。

「ただ純粋にサーキットの現場に出て働きたいと思ったんだ」と彼は若き日を振り返った。「マセラティはレース部門を持っていなかったが、しかしそのおかげで私がレースの現場に出ることができた。初めてのレースのことはよく覚えている。1962年のセブリング12時間レースで、私は25歳だった。そのレースではロジャー・ペンスキーとブルース・マクラーレンが乗って5位に入った。セブリングに行くためにプロペラ機のDC6で海を越えたが、それはまるで火星に行くようなものだった。私はまさにそういう仕事をしたかったんだ」

1963年、マセラティでルーカスの機械式燃料噴射システムに取り組んでいた時、車好きの友人であるコラード・カルペッジアーニがダラーラとフェルッチオ・ランボルギーニを結び付けた。

「彼の計画を聞いてチームに加わることを決めた」という。ダラーラは外部のコンサルタントとして、3.5リッターV12エンジンからできるだけのパワーを引き出そうとしていたジオット・ビッザリーニとともに働くことになった。他にも若い才能、フェラーリとアバルトから来たアキッレ・ベビーニ、オリビエロ・ペドラッツィがいた。数カ月後にダラーラの生涯の友人となるパオロ・スタンツァーニも加わり、彼らがアウトモビリ・ランボルギーニの基礎を築いたのである。

「あの頃を振り返ると、今ではなおさら、フェルッチオだからできたと確信している。つまりランボルギーニのように自動車業界では新参者だけが、私のように若く、自分が経験不足であることに気づいていない人間を雇うことができたのだろう」

▼ランボルギーニでの日々
ランボルギーニではすべてが新しく、ほとんどの時間は必要とされるものは何でも自分たちで設計し、製作することに費やされた。それを手掛けたのはとても若く、情熱的で、時にはうぬぼれたチームだったが、常にフェルッチオのモットーが後押ししてくれたという。「試してみなければ、新しいものを生み出せないじゃないか」

挑戦を恐れないそんな姿勢が、未来的で驚くべき製品を生み出した。たとえば最初の市販モデルである350GTに採用されたDOHC技術は、フェラーリでさえ市販モデルにはまだ採用してはいなかった。ただし、それと引き換えに信頼性と開発に要する時間が犠牲になり、初期の顧客は開発ドライバーとしての役目も担っていたという。そのわずか3年後にはミウラが登場する。それを定義するために世界は「スーパーカー」という新しい言葉を生み出さなければならなかった。

「ミウラにエンジンを横置きにミドシップするというアイディアは、サー・アレック・イシゴニスの偉大な発明品であるミニを眺めていた時にチームが思いついたんだ」とダラーラは打ち明ける。「彼は画期的な小型車のスペースを有効利用するために横置きエンジン方式を取り入れた。ランボルギーニはただそれをキャビンの背後に移しただけ、そうすればホイールベースを長くすることなく、V12エンジンを搭載できると考えた。すべての始まりはこの思い付きで、ミニの影響はペドラッツィのスケッチを見れば一目瞭然だ」

1965年11月のトリノ・ショーにローリング・シャシーを展示した時、彼らは衣装を誰に任せるかをまったく考えていなかったという。あらゆる決定はその場その場で決められていた。裸のシャシーを車として完成させるという基本的な計画は、フェルッチオとヌッチオ・ベルトーネの会合で突如動き出したものだったという。今もダラーラは、彼のチームはフォードGT40を気に入っており、何か似たようなものを作れないかと考えていたことを思い出すという。

「ちょうどクリスマスの頃だったと思う。会社は休日だったが、ベルトーネとベルトーネのコマーシャルマネジャーのエンツォ・プレアロ、そしてフェルッチオとの会議のために雪が降る中を運転して出かけたことを覚えている。最初の提案を見て話し合うためだ。ところが見たとたん、ひと目で恋に落ちた。ベルトーネに『もうこれ以上触らないでくれ。これで完璧だ』と頼んだくらいだ。フェルッチオは車を見て“気に入った、これで我々は歴史を作る。だが売るのは難しい”と言ったんだ。それでも彼もベルトーネも5年間で50台は堅いと予想していた」

1966年のジュネーヴショーで歴史は始まり、その数日後、グランプリが開催されるモナコまで走って行った。その後のことすべては今では伝説のようなものである。

▼0.8mm厚の鋼板製フレームのミウラ
シャシーナンバー3165の1967年式ミウラP400は、68番目に製造された車で、今もきわめて薄い0.8mm厚の鋼板製フレームを備えている。この車はパルマのランボルギーニ・ディーラー「マリアーノ」を通じてピエル・ルイジ・ボルミオーリに1967年10月10日にデリバリーされたという記録が残っている。ボルミオーリは、イタリアの巨大ガラスメーカーの御曹司で、イタリア映画の“甘い生活”を地で行くプレイボーイとして名をはせた人物である。

ホワイトのボディにブラックインテリアを持つP400は、たちまちパルマだけでなく、イタリア全土で有名になった。というのも、彼の愛人であるタマラ・バローニが乗り回していたからだ。彼女は当時イタリアでもっとも美しいと言われた売り出し中のスターで、ゴシップ雑誌の表紙を常に飾っていたのである。

「あの車のことはよく覚えている」とダラーラ。「ボルミオーリが車を引き取りにサンターガタ・ボロネーゼに来た時のことも含めてね。後に週末にパルマで見かけたが、その頃はもう週刊誌が“タミウラ”というあだ名をつけていた。週末にパルマに戻ると、あの車はいつも特別な場所に停まっていた。もちろん、いつかあの車を買うなんてことはまったく想像したこともなかった。」

「あの当時、私はライトブルーのフィアット500に乗っていた。1960年代の初めに、フォルノーヴォのロンバッティ・フィアットディーラーから買った自慢の中古車で、私の唯一の交通手段だった。毎週末、マラネロからパルマまで走って往復したものだ」

ミウラを買うというアイディアをダラーラが考え始めたのはこの15年ぐらいのことだという。しかしながら、何度も何度も、この車を買う金額を用意することを自分自身に納得させようとしているうちに時間が経ってしまい、そのうちに値段はさらに高くなってしまった。

「だが80歳の誕生日が近づいた時、引き金を引いた」と彼は言う。「今この時か、二度とないかだ、と自分に言い聞かせた。そしてついに、もっとも安く手に入るミウラ、スウェーデンで売りに出されていたP400を買った。ボディカラーはグレーで、状態は決していいとは言えなかった。その時はそれがボルミオーリの、私の故郷に最初にデリバーされた車だったことにまるで気づかなかった。後になって買う時に安く済んだものは、レストアで高くつくということを学んだのだが、幸いなことにランボルギーニ・ポロストリコの友人たちが助けてくれるという。彼らは良いレストアというものは何をどのようにすればいいかを教えてくれた」

「娘と一緒に幾晩も、ペイントすべき適切なカラーリングは何かと考えたが、結局ポロストリコのスタッフが、『唯一の選択肢はオリジナルのホワイトを尊重することです』と私を説得してくれた。たったひとつだけ、自分に許したオリジナルではないパーツは、もともと塩化ビニールだったドアのトリムをレザーに替えたことだけだ」

レストア作業は14カ月を要した。ざっと3000マンアワーである。すべての部品がレストアされ、オリジナルでないものは交換された。ディテールにも万全の注意が払われ、どんなに小さな部品でも、できる限り最初のカスタマーに納車された時と同じ状態に戻された。そしてある晴れた秋の日、ダラーラがサンターガタにプロジェクトの成果を引取りに来るダラーラを私たちは待ち受けていたのである。

「今まで、ボディが載った状態を一度も見ていないんだ」と彼は語った。「これまでは写真を何枚か見ただけだ。サロン・プリヴェ・コンクールでベスト・イン・ショー・トロフィーを貰った後に出版された雑誌でね。そのトロフィーを祝う電話が信じられないぐらいかかって来たよ。デイトナで私のレーシングカーが勝った時よりもはるかに多かった。ただ、実は今でもちゃんと運転できるかちょっと心配なんだ。何しろ、最後にミウラを運転したのは30年以上前のことだからね」

▼ダラーラに手渡すとき
しかしながら、ポロストリコのアフターセールス部長であるパオロ・ガブリエッリがカギをダラーラに手渡すと、彼は今でもミウラを運転できる以上の能力を持つことを証明して見せた。

「今日はこのような車にとっては最高の交通環境ではなかったが、私にとっては大きな問題ではない。今のところ、決めているのは孫娘と一緒に魚料理を楽しみに、パルマリア島のロカンダ・ロレーナに行くことだけだ。その後は、ダラーラで働いている若いエンジニアたちにミウラを見せるつもりだ。私たちがどれほど世間知らずだったか、そして、当時はディストリビューターにしか電気は必要ではなかったが、ミウラのエンジンは反時計回りだったので、どのように細部を改造しなければならなかったか教えるつもりだ」

「今なら笑い話だが、私はフォードのR&D部門がミウラを一台購入した後に写真を送って来た時のことも教えようと思う。それは彼らのテストの最中に曲がったサスペンションのリンクの写真だ」

「私は彼らに、安全性について無数の失敗を犯しながら、あるいはまったく備えていないにもかかわらず、どのようにして歴史上もっとも驚くべき車を製作したかを見せるつもりだ。リアに荷重がかかりすぎたこと、4本のタイヤを同じサイズにしてしまったこと、クーリングファンの能力が小さすぎたこと、そしてファンの性能を効果的に引き出すにはファンの下部を覆わなければいけないことを知らなかったこと、さらに車を作り上げるために必要だからギアボックスとディファレンシャルを内製したにもかかわらず、実は私たちチームの誰ひとり、それまで設計したことがなかったということ。そうしたことを伝えなければならない」

1969年にダラーラはランボルギーニを離れて本格的なレースの世界に身を投じる。フランク・ウィリアムズとアレハンドロ・デ・トマゾとともに彼らのF1チームで働き始めたのだ。1972年には彼自身の会社を興したが、出費を抑えるために父親の家の裏のガレージを本社にした。いっぽうでまだランチアのためにも働いていたので、家族のために給料を得ることができたという。その後の成功にもかかわらず、ダラーラのミウラとランボルギーニ時代に対する愛情は際立って特別なものである。

「私たちは皆若かった。夢を現実にできると信じていた。もしミウラが生まれていなければ、私の人生は違ったものになっていただろうと想像することがある。ミウラの生みの親のひとりと認めてもらえることは誇りに思うし、あの素晴らしい時代に出会った人々の忘れられない思い出がある」

そう言いながら、彼自身のミウラのプロダクション・シートを眺めると、たちまちそこに記入してある筆跡とサインが亡くなったテストドライバーのボブ・ウォレスのものであることに気づいた。新車のようなミウラをパオロ・スタンツァーニの家の前で撮影したいという私たちの願いを受け入れてくれる前に、彼はコピーを取ってくれと頼んだ。

「それは素敵なアイディアだ」とダラーラ。「偉大な仕事のパートナーであり、生涯の友人だった彼を称えるのに、私の誕生日プレゼントを見せる以上の良い方法は考えられないよ」


オリジナルのホワイト/ブラックのボディカラーにレストアされ、まさに輝くばかりのミウラ。亡くなった同僚パオロ・スタンツァーニの自宅前にたたずむ。

1967年ランボルギーニ・ミウラP400
エンジン:3929cc、V12気筒 DOHC、
ウェバー・トリプルチョーク・ダウンドラフト・キャブレター×4基
最高出力:350bhp/7000rpm 最大トルク:262lb-ft/5000rpm
トランスミッション:5段MT 後輪駆動 ステアリング:ラック&ピニオン
サスペンション(前/後):ダブルウィッシュボーン、コイルスプリング、
テレスコピックダンパー、スタビライザー
ブレーキ:4輪ディスク 車重:1125kg
最高速163mph 0-60mph加速:6.3秒


▼昔の作品をいくつか
ジャン-パオロ・ダラーラはイタリアのレース界で最もよく守られてきた秘密だったかもしれない。その訳をここで明かそう。

▼ほぼすべてのレースを制したダラーラ
ジャン-パオロ・ダラーラを評してモーターレーシング界の大物と言う人がいるかもしれない。しかし、そんな説明では実はまったく不充分である。現代のレースのほとんどのカテゴリーはいわゆるワンメイクシリーズだが、ダラーラは地球上のすべてのチャンピオンシップ用に、それこそフォーミュラ3からインディーカーに至るまであらゆる種類のマシンを製作しているのだ。そして次には、過去20年間の偉大なスポーツプロトタイプカーのいくつかに(たとえばアウディ)、彼が表面には表れない貢献をしていることを理解しなければならない。F1を別にすれば、彼と彼のマシンはモーターレーシングのほとんどすべてのジャンルを制覇しているのだ。

これらすべての成果は、航空力学を修めたエンジニアとして1959年にフェラーリでキャリアをスタートさせてからの長い年月の間に成し遂げられたものだ。その後彼はマセラティに移り、さらにランボルギーニに加わり、最初は350GTのシャシーとギアボックスの開発に携わった。彼はまたジオット・ビッザリーニのV12エンジンをロードゴーイング・グランツーリスモ用として適合させる仕事も任せられたという。

アレハンドロ・デ・トマゾのためにフォーミュラ2マシンを設計する前には、エンジニアとしての技術を1960年代の他の多くのモデルに貸し与え、その結果、当代随一のテクニカル・ディレクターとして知られるようになった。これが1970年のウィリアムズ505F1につながった。ダラーラはさらにパンテーラのシャシー設計を担当し、その後ランチア・ストラトスの開発にも携わった。

1972年にダラーラ・アウトモビリを設立してからは、デザイナーとしてばかりではなく、ビジネスマン、しかも有能なビジネスマンとしても働くことになった。自国マーケット向けにスポーツレーサーを製作して必要とされたリラを稼いだのである。パルマの近くのヴァラーノ・デ・メレガリに開いた小さなファクトリーには、たちまち大勢の顧客が詰めかけるようになったが、同時にダラーラは大手メーカーのコンサルタントとしての仕事も続けていた。

1970年代半ば、彼はフィアットX1/9のグループ5レーサーを開発したが、それがランチアの競技部門のボスだったチェーザレ・フィオリオの目に留まり、彼はダラーラにランチア・ベータ・モンテカルロ・グループ5レーシングカーの製作を依頼する。その車は1980年のメイクス世界選手権を獲得、それはダラーラにとって初めての国際的なタイトルであり、グループ6のLC1、そしてグループCカーのLC2とランチアの協力関係は進展していった。

年表を一気に1994年まで早送りしよう。ダラーラ・アウトモビリは後に333SPと呼ばれることになるマシンの開発をフェラーリから請け負う。そのスポーツプロトタイプは異例に長く活躍し、通算56勝を挙げることになる。333SPはもともと米国をターゲットにしたマシンだったが、その顧客兼レーシングドライバーでもあったアンディ・エヴァンスが、1990年代半ばにインディのボスだったトニー・ジョージとダラーラを結び付けた。チャンプカー・レーシングは当時分裂騒動のただ中にあり、トニー・ジョージは新しいIRLシリーズを立ち上げるために15台のダラーラ製シングルシーターの製作を依頼した(ライバル・コンストラクターであるGフォースにも同様に15台を発注した)。1998年のエディ・チーバーによるインディ500の勝利は、イタリアのメーカーがこの伝説的なレースで挙げた58年ぶりの勝利だった。

過去20年以上にわたって、ダラーラの会社は、KTM XボウからマセラティMC12、アルファ・ロメオ8C、そしてブガッティ・ヴェイロンまであらゆるモデルの開発に重要な役割を果たしてきたが、ロードカーそのものを手掛けてはいない。サッカー狂の伝説的エンジニアは今なお意気軒高でまったく引退する気配も見せない。そうでなくては我々世の中の車好きががっかりするというものである。

Octane Japan 編集部

最終更新:4/18(木) 18:57
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