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嘉納治五郎の愛弟子に 平和台を創った男の「運命の岐路」

4/18(木) 12:05配信

西日本新聞

平和台を創った男 岡部平太伝 第2部<4>

 スポーツの聖地・平和台(福岡市)を創設した岡部平太(1891~1966)。糸島で生まれ、福岡、東京、米国、旧満州、そして世界中であらゆるスポーツを体得・研究し、生涯をかけて「コーチ」に徹した。「2020東京五輪」を前に、日本近代スポーツの父ともいえる男の波瀾(はらん)万丈な生きざまを追う。

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 福岡師範学校は福岡市中央区西公園にあった。跡地には現在、福岡教育大付属小中学校がある。岡部平太は晩年、福岡教育大で教壇に立っており、浅からぬ縁があったのだろう。

 福岡師範に呼び出された岡部は、教頭から「東京高等師範学校に行け」と告げられる。東京高師は1868(明治元)年、中等教員の養成を目的に創設。明治維新後、日本の中枢を担う人材を育ててきた「教育の総本山」だった。

 そこに体操科・柔剣道専門コースが新設されることになり、岡部を特別推薦するという。思いもよらぬ話に、岡部が「すでに教員になっている身ですから」と断ると、能弁で知られた教頭は「おまえは世の中を知らん」と説教を始めた。

 2時間後、ついに説き伏せられた岡部は「思えばそれは、運命の岐路だった」と振り返っている。

 この話には、東京高師の校長で講道館の創設者、嘉納治五郎の働き掛けがあったとされている。京都武徳会で準優勝し、その名が全国に知れ渡った岡部をスカウトしたのだろう。

 岡部は久留米市の高等小学校を依願退職し、1913(大正2)年4月、東京高師体操科に入学。柔道部に即座に入部したが、「自分より強い者がいなくて落胆した」という。

 そこで講道館の門をたたく。最初の練習相手は三船久蔵という人物だった。岡部は自信を持って対戦するが、全く歯が立たない。それもそのはず、三船は後に最高位の10段となり、「理論の嘉納、実践の三船」と称賛される伝説の柔道家だった。

 「これから相手はこの人だ」と心に決め、岡部はひたすら柔道に打ち込む。1カ月後、講道館の紅白試合が開催された。力を発揮した者には段位が与えられる。岡部は京都武徳会の初段だったが、格式高い講道館では他の道場や団体の段位は認めていなかった。

 ところが、白帯で出場した岡部は、黒帯の初段を相手に圧倒的な強さで5人抜きを達成。その活躍ぶりに、嘉納は2段を授与する。初段を飛び越した異例の昇段。嘉納が岡部を愛弟子(まなでし)と認めた瞬間だった。

 それから岡部は柔道漬けの生活を送る。各地の道場や警察、大学に出向く「道場破り」にも励んだ。

 そして、上京から半年が過ぎた秋。岡部に新たな挑戦の機会が訪れる。まさかそれが新聞沙汰になろうとは、思いもしなかったのだが…。

 =文中、写真とも敬称略

西日本新聞社

最終更新:4/18(木) 12:41
西日本新聞

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