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誰もが手に入れたいと思うイタリアの華│ランチア・アウレリア スパイダー

4/19(金) 18:26配信

octane.jp

苦悩時代のランチア

近年ランチアの経営状態は芳しくなく、自社ブランドはクライスラーによる数種類のバッジモデルと、イプシロンの一車種のみである。英国では、ランチアは1995年(デルタ・インテグラーレ)以来販売されていない。1980年代に、ベータに錆がひどく発生したことから、怒ったオーナーたちがランチアに対して買い戻しを要求するという前代未聞のスキャンダルによって、英国におけるランチアのイメージは大きく失墜してしまった。

ランチアは、独立して事業を行っているときでも、採算性が高かったわけではなく、フィアットなどの競合他社が大量生産を推進する中、なお手作業を多用して生産を行っていた。元フィアットのレーシングドライバー、ヴィンチェンツォ・ランチアとクラウディオ・フォゴリンの構想により1906年に設立されて以来、ランチアは世界で最も革新的かつ進歩的な車メーカーのひとつだった。電気式ヘッドランプ、モノコックシャシー、独立懸架をいち早く採用しただけでなく、第二次世界大戦前に、左右バンクで共通のシリンダーヘッドを用いる、挟角V型の4気筒と8気筒エンジンを開発した。

しかし高額な生産コスト、モーターレーシングに対する無謀とも思える欲求、そしてスケールメリットがまったくないに等しい経営状況を受け、1955年、ヴィンチェンツォの息子、ジャンニ・ランチアと彼の母親は、自分たちの株式をペゼンティ家に売却せざるを得なかった。だが、その後も経営が改善することはなく、1969年10月、採算の取れないトリノのランチアは二束三文でフィアットに売却された。

家族経営であった1950年代初期が、おそらくランチアにとって最もいい時期であると同時に最も悪い時期だったと言えるだろう。アルベルト・アスカリがステアリングを握ったD50フォーミュラ1マシンは、優れた設計ゆえに前途有望と思われていた。果たして1954年のデビューでポールポジションを獲得し、ファステストラップを記録した。しかし翌1955年、アルベルト・アスカリの事故死や会社の売却により、D50は誰もが認める才能を持ったエンジニア、ヴィットリオ・ヤーノとともにスクーデリア・フェラーリに引き継がれた。

こうした時期に登場したのが、1台当たりの利益は高くないものの、見た目もメカニズムも強烈な印象を与えるアウレリアだ。

1940年代後半、いくつかの実験を経て、エンジニア、フランチェスコ・デ・ヴィルジーリオに対し、Vバンク角60°の6気筒エンジンを開発する許可が与えられた。コンパクトなサイズゆえに、かつてイタリア当局から義務付けられていた、ジョイントのないステアリングコラムとともにボンネット内に収めることが可能だった。軽量ブロックV6ユニットには、アルミ合金製のプッシュロッドを備えたOHVヘミヘッドが組み合わされた。

トランスミッションだけでなく、クラッチまでもリアに配置していることで、エンジンと同じ速度で回転する分割型プロペラシャフトが高速走行で振動を起こすおそれがあるが、トランスアクスルゆえに優れた重量バランスを実現した。

最初のB10アウレリアに搭載されたエンジンは、排気量わずか1754ccで、セミトレーリングアーム式リアサスペンションと、ランチア伝統のスライディングピラー方式のフロントサスペンションを備えていた。フロントフェンダーに備わるグロメットは、ダンパーの減衰力を調整するためのものだ。スライディングピラーを用いているのは、ランチアを除けばモーガンぐらいなものだった。

サスペンションは羽のように軽いバネ下重量と、優れたホイールトラベルを実現しているが、車がロールするとフロントホイールのキャンバー角がボディのロール量に正比例して変わることになる。そのため、標準の“ナローゲージ”タイヤを装着するのが最適だ。ワイドタイヤを履くと、トレッドを地面に対しフラットに維持するために硬いスタビライザーとスプリングが必要になり、振動が増して、ステアリングに狂いが生じる。

最終的に、B10に代わって2266ccエンジンを搭載したB12、ロングホイールベースバージョンのB15、そして2リッターのB21とB22が生産された。1951年のB20GTクーペはドライバーズカーであり、2リッターから始まり、シリーズ3では排気量が2451ccに拡大された。また、シリーズ4では、フロントのスライディングピラー式サスペンションを完璧に補完すると考えられる、ド・ディオン・アクスルとパナールロッドの組み合わせがリアに採用された。

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最終更新:4/19(金) 18:26
octane.jp

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