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カーデザイン界の問題児3人が作り上げた3台の問題作

4/20(土) 18:15配信

octane.jp

スカリオーネの33ストラダーレ

同じ頃、アルファロメオ社長のジュゼッペ・ルラーギは、会社のイメージを象徴するロードカーが必要だと考えていた。そして、それを始める場所は、エンジニアのカルロ・キティ率いるレース部門のアウトデルタだと判断した。

ルラーギの構想は、アウトデルタに送った指示書に明確に示されている。「新たなスポーツカーはティーポ33のシャシーをベースにし、メカニカルの搭載位置も同じミド・リアとする」さらに目標も明確だった。「私が求めるのは、パフォーマンスも含めて、レーシングカーの65%を引き継いだ公道走行可能な車だ」 

キティとスカリオーネは旧知の仲だった。スカリオーネからキティの元に、新たなロードカーの仕事を引き受ける旨を
記した手紙が1966年12月16日に届いている。これがのちに33ストラダーレと名付けられるのだ。キティの意向で、プロジェクトはミラノ郊外のアウトデルタで進めることになり、スカリオーネは毎日トリノから通った。

スカリオーネは回顧録に次のように記している。「あれは人生最大の過ちのひとつだった。アウトデルタには、ボディ製作で私を補助できる技術を持つ者がいなかったからだ。その上、私にあてがわれたのはレーシングチームのメカニックだから、しばしばレースの仕事に戻る必要があった。私はプロジェクトリーダーから一転、ブルーカラーの労働者になって、自分の手で必要なものを製作したり溶接したりしなければならなかった。しかも作業場にはボディの製作に必要な設備が整っていなかった」

予定より遅れて完成したプロトタイプをルラーギに見せると、製造に移る許可が下りた。33ストラダーレは、ティーポ33のシャシーを10cm延長してベースにしている。サスペンションは、複雑なマグネシウム(エレクトロン)製アッパーストラットのないシンプルな仕様とした。その製造は、アルファロメオ本社にほど近いカロンノ・ペルトゥゼッラにあったカロッツェリア・マラッツィに任された。

「33ロードカー・プロジェクト全体の中でも最大の過ちがここにあった」と話すのは、アルファロメオの歴史家、ファビオ・マルラッキだ。特にこの時代がお気に入りで、子どもの頃は両親ともにアルファロメオで働いていたという。

「マラッツィにはこの仕事をする態勢が整っていなかった。軽量アルミニウム合金を扱う必要があったのに、その知識も経験も持ち合わせていなかった」

では、なぜカロッツェリア・マラッツィはこの仕事を勝ち取ることができたのだろうか。マルラッキは次のように説明する。「当時のアルファロメオはイタリア産業復興公社の一部だったが、経営は厳しく管理されていた。入札を行い、最も安く引き受ける業者が選ばれた。マラッツィは最安値を提示したのかもしれない。ひょっとすると、会社から近いことが、製造期間の短縮につながると考える者がアルファロメオの中にいたのかもしれない」

「いずれにしても、その結果、スカリオーネはこのプロジェクトに自分の時間を100%費やすことになった。マラッツィの職人に仕事のやり方を教え、やって見せることも多かった。アウトデルタの最初のプロトタイプはもちろん、マラッツィで製造された11台すべてにも、スカリオーネの手が入っていることが分かっている。コレクターや歴史家にとっては素晴らしいことだが、スカリオーネにとってはいい迷惑だった。なにしろ、すべて込みの契約でこのプロジェクトを引き受けていたのだから」

「彼にとって余分に費やす時間は顧客への無償のプレゼントだった。しかしその分、他の顧客に対する責任を果たせなくなる。スカリオーネはキティとルラーギに宛てた手紙の中で、プロジェクトが終わる頃には、時給に換算した自分の利益は肉体労働者より低くなるだろうと書いているよ」

どれほど不満がたまっていても、スカリオーネはその魔術を振るわずにはいられなかった。こうして33ストラダーレは、史上最も魅力的な美しい車となったのである。そのボディは、ぴったりとフィットしたスーツに機能的な筋肉を包み込んだ完璧なアスリートのようだ。1967年11月のトリノ・モーターショーでストラダーレがベールを脱ぐと、世界は言葉を失った。

魅力は外観だけではない。33ストラダーレは、パフォーマンスでもルラーギの要求を満たしていた。車重はわずか700kgで、バロッコにあるアルファのテストコースでは、9000rpmで260km/hを叩き出した。唯一の問題は価格だった。33ストラダーレは、世界で最も高価なスポーツカーとなっていた。

鮮烈なデビューから半世紀が過ぎた。その後の33ストラダーレについてマルラッキはこう話す。「アルファ・コレクターのジッポ・サルヴェッティは、白髪交じりになった今でもよく覚えているそうだよ。10代の頃、ミラノのセンピオーネ大通りにあったアキッリモーターズのショールームで、33ストラダーレを指をくわえて眺めていたことをね。つまりは、1970年代の初め頃にも、まだ売れずにそこにあったんだ。あの車を買う余裕のある者はわずかだった」

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最終更新:4/20(土) 18:15
octane.jp

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